話が竹内巨麿で終わっていたならば「キリストの墓」は誇大妄想教祖様の与太噺として終わっていただろう。しかし、これに学術的な補足を行い、世間に広く知らしめる者が現われた。先の少年少女集英社文庫に登場した山根キク女史である。彼女は昭和12年に《光は東方より》、昭和33年には前著の改訂版とも云うべき《キリストは日本で死んでいる》を執筆、共にロングセラーとなり、「キリストの墓」の存在をほとんど一人で世間に広めた。 ところで、「キリストの墓」の犠牲者は山根女史の他にもう一人いる。「キリストの墓」とされた塚を所有していた沢口家の当主、沢口某である。沢口は取材の際、山根から「顔がそっくり」だからキリストの子孫に違いないとのお墨付きをもらった。しかし、救世主の妻帯というのはどうもおかしい。その後、山根は考えを改め、キリストは一生を独身で終えたと信じるようになった。ところが、再取材のために戸来村に訪れると、村では、 |
竹内巨麿が主催する天津教は敗戦後、その教義の「非民主性」「不健全性」からGHQの「御取り潰し」に遭ったが、その後、山根ら信者の支えにより再建、現在でも細々と存続している。(ちなみに、継続中だった不敬罪に関する訴訟は、天皇の人間宣言と同時に不敬罪が廃止となったため棄却)。
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