《地獄の黙示録》の予算は既に300万ドルもオーバーしていた。配給のユナイトがこれを保証したが、収益が4000万ドルに達しなければコッポラが返済する旨の条件が付された。
 しかし、コッポラは平気である。

「大きな計画は必ず予算を越える。橋梁建設。NASAの計画。映画製作も例外ではない」(コッポラ)。

 彼の頭の中には、その理想とする「芸術」を完成させること以外はなかった。そして、撮影再開後も完全主義を貫き、多くのフィルムを無駄にした。
「フランス人植民地」もカットされたシーンの一つである。ウイラード大尉たちが艇で川を遡っていくとゴム栽培のプランテーションに辿り着く。ここに住んでいるのは、ベトコン台頭以前から原住民と戦ってきたフランス人領主の一族だった。
 このシーンは始終霧に包まれた、まるで50年代のフランス支配時代にタイムスリップしたかのような夢のようなシーンだ。コッポラは大量のフォッグ・マシーンを買い込み、料理も完璧に用意し、ワインの温度にまで気を配った。セットは完璧だったが、如何せん、キャスティングにまで予算が回らなかった。不本意なキャスティングに激怒したコッポラは、この何十万ドルもかけたシーンを容赦なく切り捨ててしまう。

「何もかも不満足だッ。このシーンは存在しなかったことにするッ」(コッポラ)。

 それはさながら、失敗作を地面に叩きつけて破壊する陶芸家の心境なのだろう。しかし、陶芸作りは個人作業だが、映画作りは何百もの人々との共同作業である。そのことをコッポラは忘れている。



 ところで、本作の現場においては、サム・ボトムズが本物のドラッグを服用させられたとか、フレデリック・フォレストが虎に喰われそうになったとか、俳優の受難劇も多かったが、最大の受難者は間違いなくマーチン・シーンである。

「或る日、私は自分の役柄が判らなくなり、コッポラにそう打ち明けた。この男はいったい誰なんです?。彼は私の眼を見つめてこう云った。君だよ。君自身がウイラードなんだ」(マーチン・シーン)。

 アクターズ・スタジオ出身の俳優は、ロバート・デニーロを始めとして、みな演じる役になりきるように教えられている。シーンも例外ではなかった。そして、なりきるべき役が自分自身であることを告げられた彼は混乱した。なにしろウイラードは暗殺者だったのである。
 それでも、コッポラは容赦なく素のままの彼を暗殺者に仕立て上げた。映画の冒頭に、泥酔したウイラードが拳で鏡を割り、血まみれで泣き叫ぶ場面がある。これは演技ではなかった。飲めない酒を無理矢理流し込んだマーチン・シーンの本物の醜態であった。鏡が割れたのはアクシデントで、血も本物だったが、それでもコッポラはカメラを回し続けたのだ。

「あの場面は人間の内面に潜む悪を描きたかった。マーチンの人格の中の暗黒面を引き出し、彼が暗殺を行える男であることを示したかったのだ」(コッポラ)。

「マーチンは素晴らしい人物だ。ウイラードとは違う。その彼が自分の中の暗黒部分をさらけ出せと要求されたのだから.....。彼はいつもの自分をとことん押し殺して、自分の中に暗殺者を求めた。ウイラードを演じたことが、あの発作を招いたんだ」(サム・ボトムズ)。



 

 1977年3月1日午前2時、マーチン・シーンは激しい心臓発作に襲われて入院、あと一歩遅ければ死ぬところだった。以下はコッポラとプロデューサーとの電話での会話からの抜粋。

「マーチンが心臓発作を起こしただって?。いったい誰がそんなことを?。30分でハリウッド中に知れ渡ってしまうぞッ。ユナイトが聞きつけたら僕はおしまいだ。例えマーチンが死んでも僕がそう宣言するまでは口にするなッ。判ったなッ。僕は怖い。死ぬほど怖い。今、生まれて始めて恐怖を感じている」。

 そりゃ怖いだろうが、私は主演俳優の臨死を隠蔽しようとする映画監督の方に、よっぽど恐怖を感じる。


 マーチン・シーンが現場に復帰したのは5週間後の1977年4月19日。撮影も200日を越え、いよいよ佳境に入って行った。ところが、ここへ来て一人のジョーカーが登場した。デニス・ホッパーである。
 当時のデニス・ホッパーは監督作《イージー・ライダー》を地で行くジャンキーに堕していた。マリワナ吸い放題LSDやり放題のロケ地に来たのが運の尽き。朝から晩まで麻薬漬けの彼は台詞をまるで憶えていなかった。帰国後入院。そのキャリアは86年の《ブルー・ベルベット》まで凍結されることとなる。