おかしな肉屋 |
『でぶ君のあかしな肉屋』より、でぶ君とキートン |
いつの時代にも怪奇デマ、恐怖デマというやつが流布する。近年では「口裂け女」や「人面犬」「走るばあさん」などが記憶に新しい。「ドラえもんの最終回」にはさすがの私もちょっと震えた。 ところで、G・オルポートとL・ポストマンの歴史的名著『デマの心理学』には「籠の中」より一枚上手の恐怖デマが紹介されている。 このよく出来た恐怖デマは、第一次大戦後のドイツはハノーバー地方で発生し、全ドイツに広まったものである。ドイツ国民はこの作り話を事実だと思ったらしい。無理もない。この時代のドイツは歴史に残る三人の人喰いを生んでいる。そして始末の悪いことに、この三人が三人とも「肉屋」だったのである。 |
紙屑同様になったマルクで遊ぶ子供たち |
1. 三人のおかしな肉屋 ブライアン・マリナーはその著書『カニバリズム』の中で、このおかしな肉屋たちが生まれた背景をこのように記述している。 「グロスマン、デンケ、そしてハールマンの事件は『時代が犯罪を生む』という格言を実証してみせた。3人とも人肉を食べたか、あるいは何も知らない隣人に食べさせたかのどちらかであり、しかも、その犯行はほぼ同時に行われた。この3件はどれも第一次大戦後のドイツで起きた。ドイツが経済的にも精神的にも破綻状態にあった時代だ。旧秩序が崩壊し、伝統的な道徳が忘れられ、全ドイツが価格の急騰と物不足に喘いでいた。闇屋と闇市の時代だった。人々はパンを求めて幾列にも並び、肉はほとんど入手不可能な貴重品となった。人々は生活の基盤を失い、住む家も失った。こうした人々は大量の浮浪者となり、全ドイツは無法地帯と化した」。 ブライアン・マリナーは触れていないが、こうした時代背景がナチスを生むことになる。議会は無機能化し、何らのインフレ対策も見い出せない。議員の中には共産主義に身売りしようと大真面目に主張する者もいたという。そんな中でドイツ国民は強力な指導者=独裁者の出現を望んだ。その期待に応えたのが、他ならぬアドルフ・ヒトラーだったという訳である。 |
ゲオルグ・カール・グロスマン |
2. ゲオルグ・カール・グロスマン グロスマンは単なる変質者だったので、他の個性的な2人の前に霞んでしまいがちである。しかし、最も長期に渡り、最も多くの人間を解体している。その犠牲者の正確な数は不明だが、50人は下らないとみられている。 1921年8月、ベルリンの或る下宿の家主が、間借人の部屋から女の凄まじい悲鳴が聞こえたと通報した。駆けつけた警官が見たものは、ベッドに縛りつけられた、まだ生暖かい少女の屍体だった。 その部屋の間借人、グロスマンは生来の変質者だった。彼は子供の頃から小動物を解体して過ごした。そして、最初の性交相手は鶏であり、その後、あらゆる動物と契りを結んだ。射精すると殺害し、調理して舌鼓を打った。つまり、彼にとって性欲と食欲は同じことなのである。 やがて第一次大戦に破れ、食用の動物がままならなくなると、グロスマンは獲物を人間に変えた。彼にとって人を殺すことは、糧を得るための当然の行為だった。 グロスマンの獲物はいつも浮浪者だった。仕事と泊まる場所を探すホームレスの女は街にうようよしていた。中には春を売る者も多くいたことだろう。そんな訳だからグロスマンは獲物に不自由することはなかった。彼は毎日のように女を連れ込み姦淫し、飽きると殺して解体した。自らも食べたが、残るとこれを売り歩いた。その肉は闇市に卸されホットドッグとなった。そして、そのホットドッグは、グロスマンが女を釣る餌としても用いられた。 捕らえられたグロスマンは、当然の如く死刑を宣告された。判決を聞いて彼は大声で笑い出したが、これは躁病の発作であったらしい。独房で鬱病も併発した彼は、ズボン吊りで縊死した。 |
カール・デンケ |
3. カール・デンケ デンケは数多いる「肉屋」の中でも特にユニークな存在である。ドナー隊のような極限状態の人喰いでない限り、カニバリズム(人肉嗜食)と変態性欲は通常切っても切れない関係にある。しかしデンケの場合は違った。彼は単に経済的目的のためだけに人肉を口にしたのである。 1924年12月21日深夜、ミュンスターベルクの地主の召使ガブリエルは男の助けを求める叫び声に眼を覚ました。すわ、強盗っとガブリエルは御主人様を助けに階下に飛んだ。しかし、彼の眼に飛び込んできたのは、浮浪者の脳天に斧を振るう御主人様の姿であった。 デンケは地元では「パパ・デンケ」と呼ばれる、皆から愛される町の名士であった。いくつもの借地や農地を所有する大地主で、日曜のたびに町の教会でオルガンを弾いていた。 1921年から24年にかけて、デンケは「安い肉の供給」を目指してせっせと浮浪者を殺した。まだ商品開発の段階だったので、屠殺したのはせいぜい50人程度だった。それでも相当に成果を上げ、そろそろ試験的に「デンケ牧場のヒュ ーマン・ジャーキー」は市場に出始めていた。卸し業者は飼育場もない農家のデンケがどうしたら肉を売ることが出来るのか不思議に思ったが、デンケの売る肉はとにかく安かったので仕入れを拒む者はいなかった。 逮捕されたデンケは、間もなくグロスマンと同じ方法で自殺した。独房の中でズボン吊りで首を吊ったのである。 ところで、デンケの事件後、子供たちの間でこんな冗談が流行った。 |
ハールマンと人骨が発見されたライネ川 犯行現場の屋根裏部屋 |
4. フリッツ・ハールマン 三人の肉屋の中で最も有名なのが、この「ハノーバーの吸血鬼」ことフリッツ・ハールマンである。本章の冒頭で紹介したハノーバーが発祥地の恐怖デマは彼の事件が引き金となっている。そしてこの事件が原因で、ハノーバー地方では現在でも菜食主義者が多いと聞く。それほどに影響力を誇る彼は、今だにカニバリストの代名詞となっている。 1924年5月17日、ライネ川で遊ぶ子供たちは面白い物を発掘した。人間の頭蓋骨である。子供たちはこの発掘物に喜び、競い合って探し始めた。昨日はハンスが一つ見つけた。今日はマレーネが二つ見つけた。警察も最初は医学生のイタズラだと思ったらしい。しかし、ロベルトが袋に人骨がいっぱいの「大漁」を掘り当てるに及んで、これはただごとではないと思い腰を上げた。 ハールマンは1879年10月25日、機関士である父と、病気がちな母の第6子として生まれた。母は彼を産んでからは死ぬまで寝たきりとなった。故に夫婦仲は悪く、何かにつけて喧嘩をした。優しいフリッツ少年は母親の肩を持ち、次第に父親を憎むようになった。彼は人形遊びを好み、粗野な遊びの一切を嫌悪した。 |
犯行現場の屋根裏部屋 ハンス・グランスと犠牲者の骨 |
監獄仲間の手引きで肉の密売を始めたハールマンは、天性の商才があったのか、すぐに自分の屋台を持つようになった。否。商才というよりもズル賢さと云うべきか。彼は警察の頼もしい「情報屋」となり「お目こぼし」で暮らしていたのだ。人々は彼を尊敬を込めて「ハールマン刑事」と呼んだ。彼によくすればそれなりの見返りがあったからだ。警察も彼の提供する情報に重宝した。そんなわけで、彼は闇市の顔役となった。真夜中になるとハノーバー駅で家出少年を補導する彼の姿がよく見られた…。 ハールマンの最初の犠牲者は1918年に失踪したフリーデル・ロテだと云われている。家出少年の行方を探していた両親は、息子と思しき少年が「刑事に補導された」との情報を入手、早速警察に足を運んだ。警察はその「刑事」がハールマンであることはすぐに判った。大事な情報屋だが仕方がない。寝込みを襲って踏み込むと、彼は別の少年とベッドの中で戯れていた。現行犯なので目をつぶるわけにもいかず、ハールマンは猥褻罪で逮捕された。警察は問題の家出少年もこうして彼に犯されて、涙ながらに逃げ出したのだと推測した。しかし、4年後に再び逮捕されたハールマンは、実はあの時、その少年の頭部は新聞紙に包んでレンジの裏に隠してあったと告白した。 9ケ月後に釈放されたハールマンは、久しぶりのシャバで運命共同体とも云うべき相棒に出会う。ハンス・グランスである。まだ16歳の彼は、ハールマンの更に上を行く外道だった。強盗恐喝は朝飯前、美少年の彼は完全にハールマンを支配し、その殺人衝動を己れの利益に利用した。 ハールマンの逮捕は意外に呆気なかった。大量の人骨を発掘した警察は当初からハールマンを疑っていた。しかし、証拠がない。そんな時、「ハールマン刑事」に逆らった或る若者が、偽造証明書を所持していることを理由に、ハールマン自らの手により鉄道公安官に突き出された。その若者を取り調べると、彼は過去にハールマンに犯されたことを証言した。これは好機と早速ハールマンに出頭を求め、その間に彼のアパートを捜索した。すると出るわ出るわ、被害者の衣類や身分証明書、そして多くの血痕が発見された。 |
盗み撮りされた法廷でのハールマン |
1924年12月4日から始まったハールマンの裁判は14日興行の茶番劇だった。審理の手順はハールマンが仕切り、彼は法廷で煙草を吸うことも許された。何故か?。警察としては、彼が警察の情報屋で、「刑事」を名乗ることさえも許されていたことをバラされたくなかったからである。この御機嫌取りは効を奏した。ハールマンはすべてを自供し、しかし、余計なこと、つまり自分の警察との関係については押し黙った。 ハールマンは24件の殺人について有罪となり死刑を宣告された。1925年4月15日にギロチンで処刑されている。 |
参考文献 |
『カニバリズム』ブライアン・マリナー著(青弓社) |