あれ
ハリウッド黎明期の女神たちとその悲惨な生涯


 

 私が性に関するサブカルチャーに興味を持ったのは、18歳の時に伊藤俊治氏の『セックス・シアターのフリークス』という論文を読んだ時からだった。セダ・バラから始まり、マリリン・モンローやジェーン・マンスフィールドを経て、ハーシェル・ゴードン・ルイスの血みどろ映画やラス・メイヤーのおっぱい映画、ジョン・ウォーターズの悪趣味映画に寄り道し、マリリン・チェンバースやリンダ・ラブレイスといったハードコア女優や、遂にはスルカという両性具有女優(男優?)に至るというこの論文はとにかく圧巻だった。

 それは心霊現象以上に「あなたの知らない世界」だった。以来、私はマメにその方面の文献を読み、映画等の資料を漁った。そして、今ではすっかり、その方面の専門家になってしまった(笑)。
 そんなわけだから、この『悲惨な世界』でも、以後、たびたび上に列挙したような事柄が登場する。その第1弾たる本章は「セダ・バラからジーン・ハーロウまで」。サブ・タイトルは仮に「グラマーの原形が作られるまで」としておこう。



セダ・バラ

1. セダ・バラ

 ハリウッド最初のセックスシンボル、セダ・バラがデビューしたのは1914年のことである。フランク・パウエル監督『愚者ありき』で男どもを片っ端から破滅に陥れる悪女を演じ、「ヴァンプ」と呼ばれて人気を集めた。

 セダは完全に作り上げられた女優だった。本名はセオドシア・グッドマン。オハイオ出身のこのユダヤ娘は、いつの間にかフランス人とアラブ人との混血ということになっていた。その芸名は「ARAB DEATH」のアナグラムであり、彼女の私生活はその怪しげな名前と同様、謎に包まれていた。目鼻立ちを異常に強調したメイクのままで自宅とスタジオの間を往復した。もちろん、尾行されないように護衛付きだ。フォックス社が考え出した彼女のキャッチコピーが振るっている。
「セダ・バラ。50人の男を破滅させ、その家族150人を苦しめた女」

 セダはその後、クレオパトラやカルメン、サロメといった典型的毒婦を次々と演じた。また、映画会社も彼女に続くヴァンプ女優を続々と輩出した。やがて第一次大戦が終わり、狂騒の20年代が訪れると、スクリーンはまさにヴァンプ花盛りと化した。
 しかし、狂騒の20年代はスキャンダルの時代でもあった。ロスコー・アーバックルが強姦殺人事件に巻き込まれ、チャールズ・チャップリンが離婚訴訟に悩まされた。他にもメイベル・ノーマンド、メアリー・マイルズ・ミンター等、スキャンダルのために再起不能となったスターは数知れず。ハリウッドは「悪徳の都」の烙印を押され、映画会社は自粛を余儀なくされた。このような状況の中で、ヴァンプ映画は作られなくなっていく。
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クララ・ボウ


『イット』

2. クララ・ボウ

「ヴァンプ」の時代が終わり、代わって登場したのがクララ・ボウである。
 クララは「ヴァンプ」のおどろおどろしい人工美とは対照的に、健康的なお色気を売り物にした。チャールストンの陽気なリズムに合わせてはしゃぎまくるオツムの軽い女の子、「フラッパー」として売り出したのだ。これが当たった。1927年の『イット』(日本語で云う「あれ」、すなわちセックス・アピールそのものの意)が大ヒット、クララは一躍「イット・ガール」の愛称で国民的な支持を獲得する。

 クララの私生活は、映画と同様に華やかなものだった。彼女は多くのスターと浮き名を流した。その中にはまだ新人のゲイリー・クーパーや、ドラキュラ俳優としてお馴染みのベラ・ルゴシもいた。かかりつけの医師ピアソン博士を寝取り、博士の妻から妻権侵害を理由に3万ドルの慰謝料を搾り取られたこともある。

 性豪クララの武勇伝の一つに、南カリフォルニア大学のフットボール・チーム全員を順番にお相手したという豪快なものがある。この中にマリオン・モリソンという二枚目がいた。後のジョン・ウェインである。

 クララはギャンブル狂としても知られていた。下手の横好きというやつで、毎晩のようにカードに興じては大金をスっていた。リノのカジノでは大失敗をやらかした。彼女は一枚100ドルのチップをいつものように50セントだと思っていたのだ。結局、大負けした彼女は2万4千ドルの小切手に署名させられたが、翌日にはその決済を拒んだ。カジノの用心棒が彼女のオフィスに乗り込むと、
「ないものは払えないっていってんだよ!」
「なにおぉ、このアマ!。俺をナメると承知しねえゾ!」
「おや、どおするってんだい?」
「払わねえなら、てめえのツラに硫酸ぶっかけてやらあ!」
 この脅し文句を切っ掛けに刑事たちがなだれ込む。賢明なクララはいざという時のために、刑事たちを隣の部屋に待機させていたのだ。哀れ用心棒は恐喝の現行犯で逮捕され、クララは借金を免れた。しかし、新聞はクララの支払拒絶を書き立てた。彼女の人気に陰りが見え始めた。

 ここでウォール街が大暴落する。日々のパンを求めて行列する人々にとって「フラッパー」は既に過去のものだった。
 トーキーの到来も彼女の足を引っ張った。ロングアイランドに大邸宅を構える上流階級の奔放な娘。これがサイレント時代のクララに観客が抱いたイメージだった。そんな彼女の口から発せられたのは下品なブルックリン訛りのアヒル声。観客は幻滅した。

 こんなエピソードもある。クララの初トーキー作品でのこと。音響マンはこのブルックリン娘の威勢のよさを知らず、目盛りを下げておかなかった。クララは開口一番、元気よく叫んだ。
「ねえ、みんな!」
 途端、録音室の真空管がすべて吹っ飛んだ。

 やがて、彼女の女優生命を葬る事件が勃発する。1930年、クララの秘書デイジー・デヴォーが彼女の過去4年間に渡る男性遍歴をスキャンダル誌に売り渡したのだ。デイジーは結局、クララの銀行口座から大金を着服していたことが発覚、監獄送りとなったが、クララは取り返しのつかない痛手を負った。この「淫売」の排斥運動が各地で頻発、パラマウントは已むなく契約を御破算にした。
 失意のクララはカウボーイ俳優レックス・ベルと結婚、ネバダの牧場に隠居した。ここでアルコールと睡眠薬の日々が続く。やがて神経衰弱を起こして入院、その後の人生のほとんどをサナトリウムで過ごした。




ジーン・ハーロウ


ポール・バーン


バーンの遺書

3. ジーン・ハーロウ

 クララ・ボウと入れ替わるように登場したハリウッドの次世代のセックスシンボルが、「プラチナ・ブロンド」ことジーン・ハーロウである。白く輝くプラチナのような金髪に、まるでアルビノのような白い肌。そして、彼女は「フラッパー」にはない魅力を備えていた。すなわち、豊満なバストである。

 20年代の銀幕を象徴していたのは、胸の薄い「フラッパー」の脚線美だった。これに対して、ジーンは野郎どもの視線を胸にまで引き上げた。この功績は大きい。40年代のラナ・ターナー、50年代のマリリン・モンロー等、その後の銀幕は大きなおっぱい花盛り。その傾向は今日も変わりない。その意味でジーンは、現代の「グラマー」イメージの原形と云えよう。


 ところで、ジーン・ハーロウと云えば、忘れてならないのが夫ポール・バーンの自殺である。否。自殺であるかも定かではない。その死には謎が多く、いまだ解決をみていないのだ。

 1930年、ハワード・ヒューズ監督『地獄の天使』のヒロインに抜擢されて一躍注目されたジーンは、その人気が鰻上りの1932年7月2日、MGMの監督ポール・バーンと電撃結婚。ところが、その2ヶ月の9月5日に、バーンはビヴァリーヒルズの豪邸で無惨な姿で発見された。
 バーンは自宅の浴室で、こめかみを傍らに転がる38口径で撃ち抜かれて、全裸のままで倒れていた。それはジーンが実家を訪問中の出来事だった。
 バーンの残した遺書がスキャンダルに拍車をかけた。

「最愛の人へ。私が犯した恐ろしい過ちを償い、忌わしい屈辱を拭うには、残念ながらこの道しかない。愛している。
 昨夜のことは、ほんの冗談だったんだ」
(Dearest Dear, Unfortuately this is the only way to make good the frightful wrong I have done you and to wipe out my abject humiliation, I Love you. Paul
 You understand that last night was only a comedy)

「昨夜のこと」とは何なのだろうと人々は口々に噂した。その挙げ句に行き着いた結論は、とても猥褻なものだった。


1. 性的不能説

 どうやらバーンには性的な問題があり、新婦を満足させることが出来なかった。その雪辱戦がその夜に行われた。バーンは張り形を腰にくくりつけてことに及ぼうとした。ところが、それをジーンに嘲笑されて、恥ずかしさのあまりに自殺した。

 この説は巷では定説となっている。しかし、バーンは以前にも数多の女優と浮名を流している。彼が性的不能だったとは到底考えられない。
 そこで浮上するのが次の説である。


2. 三角関係説

 これは後に確認された事実だが、バーンにはドロシー・ミレットという内縁の妻がいた。彼女は精神を患い、コネチカットの診療所で療養中だった。退院して初めて愛しい人の結婚を知る。カッとなった彼女はバーン邸でひと暴れ。ジーンは泣きながら母のもとへと逃げ出した。一巻の終わりを悟ったバーンはこめかみを撃ち抜く。ドロシーも2日後に、川に身を投げている。

 この説はかなり信憑性が高い。しかし、バーンが全裸で死んでいた事を合理的に説明できない。全裸で自殺する者はあまりいないだろう。
 そこで浮上するのが次の説である。


3. 殺人説

 かつてMGMでプロデューサーをしていたサミュエル・マルクスは、自著の『DEADLY ILLUSIONS』の中で、バーンは入浴中にドロシー・ミレットに殺害されたのだと主張している。
 では、「遺書」は何だったのか?。
 それは確かにバーンの筆によるものだった。しかし、遺書ではなかった。数週間前に夫婦喧嘩をした翌日に、お詫びのバラの花束に添えた詫び状に過ぎなかったのだ。
 それがどうして現場にあったのか?。MGMのプロデューサー、アーヴィング・サルバーグがそこに置いたからだ。実はMGM側は警察が通報を受ける前に現場に駆けつけていた。マルクスもその一人だ。そして、サルバーグがいろいろといじくり回しているところを目撃していたのだ。つまり、ドル箱スターを三角関係のスキャンダルから守るために、社長のルイス・B・メイヤーの命令で、バーンを性的不能者に仕立てて、自殺を偽装したのである。

 おそらくこれが真相に近いのだろう。


 ところで、渦中の人ジーン・ハーロウは、バーンの死から5年後の37年6月7日、腎臓疾患のために急逝した。バーンの性的不能を信じてた人々は口々に噂した。曰く、
「嘲笑されたバーンはジーンの腹部を殴打した。それが原因でジーンは腎臓を傷めて寿命を縮めた」
 しかし、真相はこうである。ジーンの母親はクリスチャン・サイエンスの信者だった。そして、信仰上の理由から、ジーンも医者にかかることを一切拒否した。
 彼女の腎臓を痛めたのはバーンだったのかも知れないが、その死を早めたのは彼女の信仰心だったのだ。


参考資料

『ハリウッド・バビロン』ケネス・アンガー著(リブロポート)
『世界醜聞劇場』コリン・ウィルソン著(青土社)
『地獄のハリウッド』(洋泉社)
『ハリウッド、危険な罠』ジョン・オースティン(扶桑社)
シネアスト6『喜劇の王様たち』(青土社)
アサヒグラフ『ハリウッド1920ー1985』(朝日新聞社)


 

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