天誅御見舞い申し上げます
禁酒法の成立とその悪影響



在庫を川に棄てるビール製造者

 禁酒法。
 この「史上最悪の法律」の成立過程を、オリヴァー・サイリャックス著『世界犯罪百科全書』はこのように記述している。

「これは長くゆっくりとした助走を経て形になった法律だった。開拓時代の野蛮な酒の飲み方に対する激しい嫌悪感は、アメリカに深く根付いているピューリタニズムと融合して、禁酒運動を生み出した。1907年に、ジョ−ジア州が絶対禁酒となった。他にもいくつかの大きな田舎の州が圧力に屈した。テネシー、ノースカロライナ、ミシシッピ、ウエストヴァージニア、オクラホマといった州だ。エール大学教授のチャールズ・フォスター・ケント博士も、絶対禁酒運動に少しばかり貢献した。アルコール抜きの聖書を作ったのである。彼は聖書の中の酒に関する記述をすべて削除したのだ」

 我々が一般に「禁酒法」と云う場合、上のような州法ではなく、憲法修正第18条を指す。

「1914年、憲法修正第18条は下院で197票を獲得したが、反対票も190票あった。可決には3分の2の賛成が必要だったため、この問題が再度議論されるのは1917年になってからだった。その頃にはアメリカは、ドイツとの戦争という酔いも覚めるような体験をしていた。ドイツには数多くのビール会社があり、そのために酒を飲むことはいっそう評判が悪くなっていた」

  ビールの国ドイツへの反発はもちろんだが、戦時下における穀物不足への懸念も禁酒運動を後押ししたと云われている。

「憲法修正第18条が二度目に取り上げられた時は、わずか13時間で可決された。その数ケ月後、下院はわずか1日の審議で法案を承認し、1919年1月までには、必要となる36州が追加承認した。ウィルソン大統領以外には大きく異議を唱える者はいなかった。(中略)そして1920年1月17日午前0時1分、憲法修正第18条は、その後のことはほとんど考慮されないまま施行された」

 こうして読んでいると、禁酒法は極めて穏やかに成立したように思える。しかし、実際はそうではない。以下に掲げるような狂信的な人々が禁酒運動を過激に展開したからこそ、この悪法が現実のものとなったのである。




禁酒法の母、キャリー・ネイション

1 天誅御見舞い申し上げます

 1900年6月7日、カンザス州カイオワの酒場を1匹のブルドッグが訪れた。身長180センチメートル、体重は100キロ近くはあろうかというその大巨漢は、よく見ればブルドッグによく似たオバタリアン(死語)だ。スイングドアを颯爽とすり抜けた怪物は、そのまままっすぐすたすたすたと店の主人に突進した。
「お前さんがこの店の主かい?」
 鼻息が荒い。
「そうですが、いったいどんな御用で?」
「天誅〜ッ!」
 うわあ、いきなり天誅だあッ。ブルドッグは煉瓦をドカドカと投げつけて、店中の酒瓶を台無しにする。そして、唖然とする男どもを尻目に新たな標的へと向かう。隣の酒場からも聞こえてくる。
「天誅〜ッ!」
 保安官が到着したのは、3件目が台無しにされている時だった。
「いったいどうした!?」
 どうもこうもない。禁酒法の母、キャリー・ネイションの「聖戦」の火蓋が切って落とされたのである。

 キャリー・ネイション(旧姓ムーア)は1846年11月25日、ケンタッキー州の田舎町に、アル中の父と、己れをヴィクトリア女王だと思い込んでいる母との間に生まれた。弟も妹も母を追うように癲狂院で死んでいる。血が濃かったようだ。
 21歳でチャールズ・グロイドに嫁いだことが酒との戦いの始まりである。チャールズは南北戦争の退役軍人で、戦場での体験がトラウマになっていた。これを忘れるために安酒を呷る。するとキャリーが罵声を浴びせる。これからも逃げ出すために安酒を呷る。毎日がこれの繰り返し。彼がアル中で死んだのは、娘のシャーリーンがまだ生後6ケ月の時だった。
 キャリーは幼い娘のみならずチャールズの母親まで養うハメとなる。当然に生活は苦しく、それでも針子をしながらなんとか暮らす。やがてデヴィッド・ネイションと再婚。ところが、この男がまたしてもデクノボウ。様々な職を転々としたが、ものになるものは一つもない。キャリーはまた一つお荷物を背負込むこととなる。




エドウィン・S・ポーター監督『酒場の騒動』

 キャリーが女闘士に変身したのは45歳の時である。その頃には彼女はどうにかやりくりしてカンザス州メディソン・ロッジで木賃宿を経営していた。そして、ご近所づきあいで顔を出した「婦人キリスト教禁酒同盟」にすっかりハマってしまったのである。
 1891年、熱心な活動ぶりに地区代表に選ばれた彼女がまずしたことは、アコーディオンをブカブカ奏でながら大声で叫んで回ることだった。
「おお、神よ。己れの肝臓を痛めつけるバカ野郎の魂をどうかお救い下さい」
 そして、酒場の前で賛美歌を歌い、こんなビラを配り始める。
「この酒場の主、未亡人の製造人」
 それでも効果が上がらないとみるやキャリーは有形力を行使する。酒場に乗り込み、店の主人や常連客をハンドバッグでボコボコ殴る。やがて町内の婦人たちもキャリーに加わる。あっちでもボコボコ。こっちでもボコボコ。あんまりボコボコするもんだから、町内の酒場は次々と店じまい。遂には1軒もなくなってしまったというからもの凄い。
 ここでキャリーに神の啓示が下る。
「カイオアに行け。私がついている」
 この啓示(幻聴とも云う)を受けて遂行されたのが、冒頭の襲撃事件だったのである。




「聖戦」の模様を伝える当時の漫画

 1900年12月27日、キャリーは今度はウイチタにあるケアリー・ホテルを訪れた。そして、地下にある高級サロンに降り立つや、顔を真っ赤に紅潮させた。その壁には入浴するクレオパトラの巨大絵が飾られていたのである。猛然とカウンターに突進するブルドッグ。
「あのいやらしい絵を焼き捨てて、ただちにこの殺人工場を閉鎖せよ!」
 何も知らないバーテンは、
「まあまあ奥さん、堅いことことは抜きにして、一杯やったらいかがです?」
「天誅〜ッ!」
 壁の絵はもちろん、サロン全体が数分のうちに瓦礫と化したことは云うまでもない。支配人の連絡で警察が駆けつけた時には、キャリーは椅子やテーブルを投げ終えて、カウンターの解体作業に入っていた。

 キャリ−はこのたび生まれて初めて監獄にブチ込まれたが、実はこれも想定内のことだった。つまり、こういうこと。過激な破壊活動で逮捕され、そのことがマスコミを通じて報道されれば、禁酒運動を州全体、ひいては合衆国全土にまで広めることが出来ると考えたのである。彼女の策略は図に当たった。記者たちが彼女の談話を求めて監獄に押し寄せたのだ。記事は翌日の朝刊の一面を飾る。その隣には聖書を片手に苦悩するブルドッグの写真がでかでかと掲載されていた。

 キャリーは今や殉教者扱いだった。彼女が獄中で大声で賛美歌を歌うと、塀の外の信者たちもこれに合わせて大合唱。釈放嘆願はやがてデモへと変わり、大通りでの座り込みが交通渋滞を巻き起こす。このままでは暴動も起こりかねない非常事態にホテル側が告訴を取り下げ、遂にキャリーは釈放される。圧巻である。痛快である。釈放されたその足で2軒の酒場を襲撃。今度の武器は斧だ。これを高々と掲げて叫ぶ。
「スマッシュ!。スマッシュ!。主の御名においてスマッシュ!」

 キャリー・ネイションという怖いおばはんの名はこの事件を機に合衆国のほぼ全域に知れ渡った。翌年の1901年にエジソン撮影所が彼女のことを映画化してからは(『酒場の騒動/THE KANSAS SALOON SMASHER』。監督は『大列車強盗』のエドウィン・S・ポーター)、その存在を知らぬ者はいなくなった。全国の酒場の主人は彼女の名を耳にしただけで震え上がった。この頃にはキャリーは精力的に全国各地を伝道して回り、「次はあなたの町に訪れるかも知れないわよ」という『花の子ルンルン』状態だったからである。

 かように恐れられたキャリーだったが、その反面で人気者でもあった。彼女の破壊活動は紙面を賑わし、講演会場はいつも満席。おみやげの「斧」が飛ぶように売れ、キャリーの財政を潤していた。また、いくつかの劇場で舞台劇を上演。自ら主演し、ケアリー・ホテルの事件を舞台で再現したりもしていた。

 キャリーは一連の酒場襲撃の他にも「ニューヨーク市長に煙草をやめさせた〜い!」と市長室にアポなしで ドカドカ押し入ったり、「ルーズベルト大統領にも煙草をやめさせた〜い!」とホワイトハウスに押し入ろうとしたり(これはさすがに止められた)と、まるで往年の『進め!電波少年』のような活躍で大いに話題を集めたが、そんな怖いものなしの彼女にも、たった一つだけ死ぬほど恐れたことがあった。それは母や妹、弟のように発狂することだった。娘のシャーリーンもやはり発狂して死んでいる。そして1911年1月、遂に彼女の番が訪れた。アーカンソーでの講演中のこと、いつもの澱みない毒舌が突然途絶え、しばらくぼんやりと観客を眺めていたかと思うと、そのままうわあと泣き崩れたのである。

 かくして カンザス州に連れ戻され、リーヴェンワースのエヴァーグリーン病院に収容されたキャリー・ネイションは1911年6月9日、隔離病棟で息を引き取る。65歳だった。




ビリー・サンデー

2 呑ん兵衛はアウト!

 キャリー・ネイションの他にも禁酒法の成立に貢献した「奇人」がもう一人いる。元大リーガーの伝道師、ビリー・サンデーである。

 ウィリアム・アシュレー・サンデー(通称ビリー)は1863年11月19日、アイオア州エイムズで生まれた。幼い頃に孤児になった彼は、地元のリーグで野球ばかりして育つ。20歳の時に大リーグ入りし、シカゴ、ピッツバーグ、フィラデルフィアのチームで「盗塁王」として活躍した。
 当時の大リーガーの例に洩れず、ビリーも「呑む、打つ、買う」の極道な毎日を送っていた。そんな彼がいったいどうして伝道師の道を歩んだのか、その真相は定かではない。一説によれば、チーム仲間と酔い潰れていた時に、近くを通り過ぎた救世軍の楽隊の演奏に感動し、
「俺はイエスのもとへ行く」
 と、そのまま救世軍の後を追ったとのことである。いずれにしてもビリーは1891年3月に突如として引退、極道から伝道へとその後の人生を切り替えたのだった。
 うまいね、どうも。

 伝道師としてのビリーは当初のうちは堅苦しく、足を運ぶ者は少なかった。そこで彼は大リーグで培った大袈裟なアクションを加えることで舞台を盛り上げることを考えた。彼の派手なジェスチャーに聴衆は唖然とした。そして、なんだか判らないけど心を打たれた。この「奇妙な伝道師」の評判は口コミで広まり、数年も経つ頃には数千人もの聴衆を集めるまでになっていた。

 ビリーの舞台はとにかく大暴れだった。椅子を悪魔に見立てて叩き壊した。演壇まで壊すこともあった。汗まみれになれば上着を引き裂き、ぐしょ濡れのシャツ一枚になってなおステージ狭しと暴れ回った。
 圧巻なのはスライディングの実演である。
「悪い奴はいつだって滑り込みで天国の門をくぐろうとしやがる。いいか。見てろよ!」
 そうがなり立てると、ビリーは舞台の端から端まで勢いよくスライディングする。そして、すばやく立ち上がって、審判=神に扮して、
「アウト!」
 このパフォーマンスをやりたいがために、舞台にはいつもグリースが塗られていたという。
 野球バカのビリーの説教は、何でも野球に例えるのが常だった。

「主よ。こいつらがあなたのもとに還れますよう、どうかコーチをお授け下さい。こいつらはいつも二塁、三塁でくたばってしまうのです」

「主よ。募金箱の前に歩み出て三振する奴が多過ぎます。今、あなたの協会のために必要なのはホームランなのです」

 バカっぽいなあ。
 しかし、このバカっぽさが故にビリーは人気を獲得したのである。計算された芸と云うべきだろう。

 キャリー・ネイションほど過激ではなかったものの、ビリー・サンデーも彼女に匹敵するほどの情熱をもって禁酒運動を展開していた。
 かつてはてめえが呑ん兵衛だってのになあ。
 1920年1月17日に憲法修正第18条が施行されると、ビリーは数万人の信者をヴァージニア州ノーフォークに集めて「アルコール葬儀」を大々的に行った。勝ち誇ったビリーは涙ながらに弔辞を述べた。

「やがて貧民窟は忘れ去られるでしょう。刑務所は工場に変わり、留置場は倉庫に変わるでしょう。男は背筋を伸ばして歩き、女は微笑み、子供たちは無邪気に笑うことでしょう」

 しかし、現実にはそうはならなかった。




ニューヨークでの禁酒法反対パレード

3 禁酒法の悪影響

 禁酒法の影響は、それはそれは凄まじいものだった。施行前には全国で1万5千しかなかった酒場が、施行後にはなんと3万2千に膨れ上がった。もちろん、すべてモグリである。1930年までの逮捕者はのべ55万人。質の悪い密造酒で失明する者が続出し、アルコール中毒による死者は6倍に膨れ上がった。
 どうしてこんなことになったのだろうか?。

 なるのも道理だった。政府は1500人の禁酒取締官を任命した他に何ら対策を講じていなかった。しかも、取締官になるためには大した資格は必要とせず、月給もわずか200ドルだった。腐敗の温床となることは眼に見えていたのだ。
 その後8年の間に財務省は706人の取締官をクビにしたが、それでも一向に不正は治まらなかった。多くの取締官がモグリ酒場から賄賂を受け取り、押収した酒を横流ししていた。

 御存知エリオット・ネスがシカゴ入りしたのは1930年のこと。この街は既に「暗黒街の顔役」アル・カポネに牛耳られていた。マトモな取締官はほとんどおらず、「アンタッチャブル」を結成するためにはよそで人材を探さなければならなかった。

 腐敗していたのは取締官だけではなかった。官吏や議員、挙句は判事までもが買収されていた。この頃にはシチリアン・マフィアを中心に密売人たちが組織化され、連合した犯罪結社へと発展し、この国を支配し始めていたのだ。同じ頃、フランクリン・ルーズヴェルトが「ニュー・ディールと一杯のビールをすべての人に」のスローガンを掲げて政権についた。しかし、時すでに遅く、星条旗は犯罪組織の手に渡っていた。

 禁酒法が生み出したものはこの3つ。
 アル中患者の増大。
 警察の腐敗。
 マフィアの繁栄。

 何一つとして好ましいものは生まれなかった。1933年12月5日に同法が廃止されると事態はすこしづつ改善されたが、マフィアの繁栄は相変わらずだ。キャリーやビリーはとんでもないことの片棒を担いでしまったのだ。

「やがて貧民窟はアル中患者で溢れるでしょう。刑務所は密売人の巣窟になるでしょう。男はヤクザにビクビクして歩き、女は春を売り、子供たちはヤクザになることに無邪気に憧れることでしょう」

 いやはやなんとも。


 20年代半ばにはビリー・サンデーもすっかり過去の人となっていた。禁酒法の成立が人生のピークだったのだ。数千人いた聴衆も、今では数十人にまで落ちぶれていた。
 デトロイトで講演していた時のこと、或る雑誌の編集長がカメラマンを一人呼び寄せて云った。
「あの男の写真を撮ってやってくれ」
「誰です?」
「ほら、昔、野球選手やってた伝道師だよ。禁酒が世の中のためになるって本気で信じてた馬鹿な野郎さ

 1935年11月6日、ビリーはインディアナ州の隠居先で息を引き取る。禁酒法が廃止された2年後のことであった。

(2007年8月25日/岸田裁月) 


参考文献

『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)
『世界変人型録』ジェイ・ロバート・ナッシュ著(草思社)
『万国奇人博覧会』G・ブクテル&C・カリエール(筑摩書房)
『20世紀全記録』(講談社)
アサヒグラフ『ハリウッド1920-1985』(朝日新聞社)


 

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