アデレイド・バートレット
Adelaide Bartlett (イギリス)



アデレイド・バートレット

 ヴィクトリア朝のロンドンを賑わせた有名な事件である。夫の殺害容疑で起訴されたアデレイド・バートレットは結局、無罪になった。しかし、冤罪とすることには疑問が残る。かと云って、アデレイドを殺人者と断言することも難しい。とにかく、謎が多過ぎるのである。

 エドウィン・バートレットは働き者だった。29歳になる頃には、ロンドンにいくつもの食料品店を経営するまでに成功していた。忙しく働く彼には伴侶を見つける暇などなかったが、兄のチャールズ宅で運命的な出会いをする。その日にたまたま遊びに来ていた姪の友達に恋してしまったのだ。彼女こそが本項の主人公、当時18歳のアデレイド・ブランシュ・ド・ラ・トレモイユだった。
 アデレイドはその名前からして明らかに「レディ=淑女」で、成り上がりのエドウィンには高嶺の花に思われた。ところがどっこい、それほど高嶺ではないことが判って来た。彼女はエライさんの隠し子(ヴィクトリア女王に仕えたこともあるというからかなりの大物)で、おてんとさまに堂々と顔向け出来ない立場にあったのだ。
 エドウィンは果敢にアタックし、どうにか後見人の了解を得るところまで成功した。あとは当人次第である。そこで彼は、こんな言葉で「うん」と云わせた。

「僕の君に対する感情は純粋なもので、肉体的な欲望とは無縁だ。2人の関係はいつまでもプラトニックなものであることを約束する」

 おいおい、いいのかよ。
 晴れて結婚したエドウィンは、誠意を証すために娶ったばかりの新妻を全寮制の花嫁学校に送り出した。それからブリュッセルの修道院に送り込んだ。たまに戻って来た時でも寝室は別々。2人の関係はまるで父親と娘のようだったという。
 2年後に2人はようやく同居するが、平和な生活は1ケ月と続かなかった。エドウィンの母親が逝き、やかまし屋の父親が同居するようになったのだ。彼はもともとアデレイドに好意を抱いていなかった。彼女をイビリ倒して家出させると、
「あの女はフレデリック(エドウィンの弟)とデキている」
 などと騒ぎ出し、あろうことかアデレイドを姦通の罪で告訴した。これに激怒したエドウィンが弁護士を通じて謝罪させたことで事なきを得たが、それにしてもメチャクチャな一家である。いずれ良からぬ事が起こるであろうことがこの時点で予想される。

 それから4年後の1881年、バートレット夫妻を再び悲劇が襲う。アデレイドが死産したのである。
 ここで「なんだよ、プラトニックじゃねえのかよ」と思われる向きがあるかも知れないが、実はこのあたりが謎の核心だったりするので、とりあえず話を先に進ませていただきたい。
 死産の責任はエドウィンにあった。あまりの難産に産婆は医者を呼ぼうとした。ところが、エドウィンがこれを拒絶したのだ。何故か? 自分以外の男が妻のちょめちょめに触ることが許せなかったからである。愚かというよりほかにない。遂に医者が呼ばれた時には、子供は既に死亡していた。

 それから更に4年後の1885年初め、バートレット夫妻はジョージ・ダイソンというメソジスト派の牧師と懇意になる。その教養に感心したエドウィンは「どうか妻の家庭教師になってはくれないか」。収入が少なかったダイソンは二つ返事で引き受けた。
 ダイソンはエドウィンが仕事に出掛けている午前中に訪問し、一日中居続けることもしばしばだった。こうした時間のほとんどを2人きりで過ごした。2人がデキちゃうのは無理からぬことである。
 ここで疑問なのは、嫉妬深いエドウィンがどうしてそうなるように仕向けたのかであるが、これについては後に検討する。

 そうこうするうちにエドウィンの具合が悪くなった。水銀中毒だった。診察した医師は訊ねた。
「心当たりはないかね?」
「そういえば先日、引き出しで見つけた丸薬を何だか知らずに服用したので、それかも知れない」
 とんちんかんな答である。何だか判らぬ薬をのむバカはいない。
 ほどなくして1886年1月1日午前4時、エドウィンは死亡した。アデレイドの説明によれば、夫の看病をするうちに眠り込んでしまい、眼を醒ますと冷たくなっていた。ブランデーで息を吹き返させようとしたが駄目だった。

 エドウィンの父親は息子の死を知らされるや否や、毒殺されたのだと断言した。そして、解剖すべきだと主張した。結果は驚くべきものだった。胃の中から大量のクロロホルムが検出されたのである。
 御存知かと思うが、クロロホルムは人間が知らずに飲むことは不可能な液体である。臭いが強いし、飲み込めば喉が焼ける。揮発したのを吸引させて、眠らせてから飲ませたことも考えられるが、そうだとすれば肺にも入る。ところが、肺からはクロロホルムは検出されていない。当人が無理矢理飲めば飲めないことはないが、それでは毒殺ではなく自殺である。いったいどうしたら飲ませることができるのか、専門家でもさっぱり判らなかった。
 やがて警察の調べで、事件の前にダイソンが3軒の薬局をはしごして大量のクロロホルムを購入していたことが判明した。問いつめられたダイソンは、アデレイドに頼まれたのだと釈明した。
 かくしてアデレイドはエドウィン殺害の容疑で逮捕された。



バートレット事件の公判(右上がダイソン)

 アデレイドの弁護人は極めて有能だった。おそらく正体の判らぬ父親が雇ってくれたのだろう。その主張は以下の通り。

1 エドウィン・バートレットは変人である。
  彼は妻に聖職者を引き合わせ、その不倫を奨励した。

2 エドウィン・バートレットは妻アデレイドとの関係を
  まったくプラトニックなものにすると約束していた。
  2人が性的関係を持ったのは、たった1度だけである。

3 病床のエドウィンは約束に反して、
  アデレイドの肉体を求めるようになった。
  しかし、彼女はダイソンへの愛ゆえに拒みたかった。
  そこで、肉体を求められたら嗅がせて眠らせるように、
  ダイソンにクロロホルムの購入を依頼した。

4 彼女がそのことを話すと、エドウィンは少なからず動揺した。
  そして、妻の関心を引くために、自らクロロホルムを飲み下した。

 その要点は「こんな変人ならば妻の関心を引くためにクロロホルムも飲みかねない」というものだった。そして、何よりの強みは「例えどんなに狡猾であろうとも当人に知られることなくクロロホルムを飲ませることは不可能」という揺るぎない事実だった。結果、陪審員は無罪を評決した。

 アデレイドは本当に無罪なのか? 具体的に検証してみよう。
 まず、1は半ば事実だろう。エドウィンは明らかにアデレイドに不倫を奨励している。しかし、かつて医者にちょめちょめを触られることを拒んだ男のすることとは思えない。おそらく何かがあり、それで態度を改めたのだ。
 あからさまに性交渉を拒まれるようになったのではないだろうか?
 プラトニックを売りにした結婚だったが、月日が流れるにつれ、自然と肉体関係を持つようになった。ところが、夫の嫉妬心から子供を殺してしまう。2人の関係は一変した。妻は性交渉を拒むようになった。そこで懐柔策に出たのだろう。間男を与え、女としての欲望を蘇らせて、そのおこぼれを頂戴しようとしたのではないだろうか?
 そう考えないと説明がつかんよ。

 では、クロロホルムはどのようにして胃の中に収まったのか?
 弁護人の主張にもそれなりの説得力がある。あるいは、ショックを受けての自殺だったのかも知れない。そうだとすれば、以前の水銀も自ら呷ったことになる。
 アデレイドが有罪だとして、クロロホルムを怪しまれずに飲ませる方法が一つだけある。エドウィンには寄生虫がいたようなのだ。虫下しの薬と偽って飲ませることが出来た筈だ。しかし、あくまでも推測の域を出ない。
 結局、限りなくグレーではあるがクロとまでは云えない。「疑わしきは罰せず」の原則からすれば、陪審員の判断は正しかったのだろう。

 アデレイド無罪の評決を知った高名な医師は、このように洩らしたという。
「もう無罪放免になったんだから、どうやって飲ませたのか、科学のために教えて欲しい」
 アデレイドが語らない以上、それは永遠の謎である。


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『情熱の殺人』コリン・ウィルソン(青弓社)
『未解決事件19の謎』ジョン・カニング編(社会思想社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)
『LADY KILLERS』JOYCE ROBINS(CHANCELLOR PRESS)


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