エリゼベート・バートリ
Erzsebet Bathory (ハンガリー)



エリゼベート・バートリ

 フランスの思想家、ジョルジュ・バタイユは遺作『エロスの涙』の中でこのように記述している。
「マルキ・ド・サドはジル・ド・レを知っており、その石のような冷徹さに敬意を示していた。(中略)しかし、エリゼベート・バートリは知らなかった。もし彼がその存在を知っていたなら、きっと狂喜のあまり野獣のように吠えたてたに違いない」。
 たしかに、知名度の点ではエリゼベートはド・レ侯に劣る。しかし、その経歴は劣るどころか、一枚も二枚も上手である。

 人類史上最悪の女性大量殺人者(ほとんど吸血鬼と云ってよい)エリゼベート・バートリは1560年、ハンガリーの名門バートリ家に生まれた。バートリ家はハプスブルグ家の流れを汲む高貴なる家柄で、代々トランシルバニア地方を治め、叔父のステファンはポーランド国王も務めた。押しも押されぬ名門中の名門である。
 しかし、この名門は血が汚れていた。長年に渡る近親婚が災いして、不穏な遺伝子が受け継がれていたのである。例えば、ポーランド王ステファンは癲癇の発作が原因で死亡しているし、もう一人の叔父は発狂して悪魔信者に。叔母のクララは4度も結婚した淫乱症で、しかも2番目の伴侶をベッドの中で窒息死させている。
 エリゼベートも例外ではなかった。
 彼女は生涯に渡って激しい頭痛の発作に悩まされ続けた。まだ幼い頃、発作を起こした彼女は介護する女中の肩を喰いちぎった。女中がぎゃあと悲鳴をあげると、エリゼベートの頭痛は不思議と治癒した。以来、エリゼベートは発作に見舞われると女中たちを虐待した。その悲鳴が何よりの気付け薬だったのである。

 こんなに血の気の多いエリゼベートでも、伴侶となる人は幼い頃から決まっていた。否。嫁ぐ「家」が決まっていたと云うべきだろう。ナダスディ家も900年以上も続いた高貴なる家柄で、この縁組により新たな名家が誕生することは確実だった。
 1575年、エリゼベートが15の時、バートリ家とナダスディ家との「合併」の盛大なる祝言が催された。夫のフェレンツと共にエリゼベートは、その所有する17もの城の一つ、チェイテ城に新居を構えた。しかし、殺伐とした時代のこと。夫は戦に奔走し、新婚生活はないに等しかった。もともと淫乱症の気のあるエリゼベートである。欲求不満は募るばかりだ。頭痛の発作は頻発し、女中を虐待することでこれを凌いでいた。
 この頃のエリゼベートの虐待ぶりは少々度を越していた。女中の指と爪の間に針を差し込み、悲鳴をあげる様を見て狂喜した。ある時などは裸の女中に蜜を塗り、これを蟻でいっぱいの地下牢に閉じ込めた。
 夫不在の退屈な日々はエリゼベートに新たな趣味を齎した。黒魔術である。下男のツルコはシャーマニズムに精通していた。彼女はツルコと共に地下室に籠り、怪しげな儀式に熱中した。
 やがて黒魔術にも厭きたエリゼベートは不倫を始めた。帰還した夫は寛容にも妻の不貞を許す。しかし、義母がチェイテ城に移り住み、エリゼベートはその監視下に置かれる羽目になる。
 エリゼベートと義母との間の冷たい戦争は陰惨を極めた。エリゼベートは乳母のヨー・イロナ、執事のヨハネス・ウィバリー、女魔術師ドロテア、そして森の魔女ダルヴァラといった海千山千の連中(彼らはみな後の大量殺人に加担する)を操り、義母に様々な嫌がらせをした。夫の前ではつとめて貞淑な妻を演じたが、陰に回ると義母の女中を地下室に閉じ込め、拷問の末になぶり殺した。
 こうした義母との確執も、夫のとりなしや4人の子供が生まれたことで、どうにか小康状態を保っていた。エリゼベートが真の怪物へと成長するのは、夫の死後のことである。

 時は移り1600年、エリゼベート40歳の時に夫は51歳の若さでこの世を去る。さあ、この時からエリゼベートの箍は弾けた。
 あがった、あがった、あがった。
 たがや〜。
 落語『箍屋』を知らぬ者には全く判らぬギャグは上に置いて、エリゼベートがまずしたことは義母の始末である。夫が死ぬや否や、またたく内にその息の根は断たれた。毒殺であろうといわれている。
 今や城内で彼女に逆らう者は誰もいない。彼女は正真正銘の「女王様」の地位を得た。臣民を生かすも殺すも彼女の自由であった。

 或る時、小間使いの少女がエリゼベートの髪を梳く役目を仰せつかった。おそらく少女は緊張していたのだろう。櫛に絡んだ髪を強く引いて、これを数本抜いてしまった。
 さあ事だ、馬の小便、渡し舟。
 エリゼベートの怒りは爆発した。彼女は手近な燭台を掴むとポカポカ。血まみれになるまでポカポカ。少女の息が絶えるまでポカポカ。思う存分ポカポカして満足を得たエリゼベートは、恍惚の表情を浮かべながら、ふと鏡を見る。返り血が彼女の顔を汚している。
 汚らわしい。貧民の血がつくなんて。
 彼女は化粧紙で血を拭き取る。
 や。これはどうしたことか。血のついた場所が前よりも白くなっているではないか!
 エリゼベートは、肖像画を見れば判るが、大層な美貌の持ち主で、彼女もそのことを誇らしく思っていた。鏡の前でひとり自愛に耽ることもしばしば。4人の子供を産み落とした後でもその美貌は変わらず、いつまでも少女のような血色を保っていた。
 しかし、そんなエリゼベートも年には勝てなかった。次第に小皺は増え、皮膚は弛み、肌もくすみを増していた。彼女はツルコに指示して若返りの妙薬をいろいろと試したが、どれもこれもが今一つだった。そこへ来てこの事件である。
 血ね。
 そうよ。血なのね。
 少女の血こそが永遠の回春剤であるのね。
 以来、エリゼベートは己れの美貌を保つためにせっせと少女と屠殺した。その数は実に600人。数も空前絶後だが、動機に至っては言語道断である。



エリゼベートのソドムを描いた19世紀の絵画

 エリゼベートに血を供給したのは小人のヤーノシュだったといわれている。貧乏な百姓たちは娘を城に奉公に出すことに躊躇しなかった。着物の一枚もやれば進んで娘を差し出した。娘たちはまるでピクニックにでも出掛けるかのように嬉々として城の門をくぐったが、生きて戻ることはなかった。彼女たちは血を搾り取られ、メチャメチャになって城の庭に埋められた。その庭には真紅の薔薇の花がいっぱい咲き乱れていたというが、これはちょっと出来過ぎだ。
 エリゼベートの拷問は、人としてどうかと思うようなものばかりだ。真っ赤に焼けた鋼で性器を焼く。喉を焼く。乳房をやっとこで潰す。或る時などは、娘の口に両手を入れて左右に広げて裂いてしまった。逃げ出そうとした娘の足首を切断するエリゼベートは微笑んで曰く、
「あら、あなたは素敵な赤い靴を履いてるのねえ」
 これもちょっと出来過ぎだ。

 パゾリーニに『ソドムの市』という問題作がある。これはサド侯爵の『ソドムの百二十日』を映画化したもので、4人のナチス将校が美少年美少女を集めて、犯して殺してウンコ喰わせる物凄い映画である。エリゼベートはこのサド侯爵の忌わしき想像の産物を現実に行った。否。それ以上のもんのスゴイことをやってのけたのである。
 彼女は60人の美少女を選りすぐると盛大なる宴を催した。小人の道化が踊る。魔女が火を吹く。宴たけなわという時にガシャーンと広間の扉が閉まる。これを合図に兵士が剣を抜く。ざんばらり。ざんばらり。転げ落ちる首。飛び散る血糊。逃げ惑う少女を裸に剥いてせむしが犯す。そして、射精とともに心臓に短剣が突き立てられる。
 バラバラ屍体は集められ、脱水ロールにかけられる。浴槽が血で満たされると、エリゼベートは衣服を脱いでこれに浸る。と同時にオーガズムに達し、城内には女王様の歓喜の雄叫びが響き渡る。
 よく「冷血」というが、人体から搾り出されたばかりの血は温かいものである。私はこのことを、実際に吐血してみて実感した。
 血は温かいのだなあ。
 私は死ぬのかなあ。
 あいにく私は死ななかったが、きっとエリゼベートも血の温もりを知り、その虜になったに違いない。浴槽に溜めることをもどかしく思った彼女は、直接に「血のシャワー」を浴びることをも試みた。少女の動脈を切り、吹き出す血を裸身に浴びるのである。しかし、少女が騒いで喧しかった。だから、次の時は、少女の口を針で縫うことを忘れなかった。



中世の代表的な処刑用具「鋼鉄の処女」

 エリゼベート・バートリの伝説をよりいっそう際立たせているのが「鋼鉄の処女」の存在である。ドイツの時計職人を招いて設計させたというこの機械じかけの処刑用具は、渋澤龍彦氏によればこのようなものだったという。
「この鋼鉄製の人形は裸体で、肉色に塗られていて、しかも化粧されている。機械仕掛けで口が開くと、曖昧な、残忍な微笑を浮かべる。胸には宝石の首飾りが嵌め込まれている。この宝石を指で押すと、機械はのろのろ動き出す。歯車の音が陰惨に響く。人形は両腕をゆるゆると高く上げる。次に人形は両腕で自分の胸を抱え込むような仕草をする。その時、人形の手に届く範囲にいた者は、否応なく人形に抱きしめられる格好になる。と同時に、人形の胸が観音開きのように二つに割れる。人形の内部は空洞である。左右に開いた扉には鋭利な5本の刃が生えている。従って、人形に抱きしめられた人間は、人形の体内に閉じ込められ、5本の刃に突き刺され、圧縮器にかけられたように血を絞り取られて、苦悶の末に絶命しなければならない」
 ところが、伝説とは裏腹に「鋼鉄の処女」はそれほど活躍しなかったようだ。というのも、この機械じかけのお人形は、じきに血糊で錆びてしまったのだ。嘆いたエリゼベートは、今度は蹄鉄工に命じて大きな鋼鉄の鳥籠を作らせた。内側には鋭い棘が生えている。滑車の装置で、この鳥籠は天井に高々と吊り上げられる。もちろん、中には娘たちがいる。これを下からグラグラ揺さぶる。もうお判りであろう。籠を見上げるエリゼベートに、血が雨のように降り注ぐのである。

 これだけ殺せば良からぬ噂がたつのも道理。近隣ではエリゼベートは「血まみれ夫人」の通り名で呼ばれていた。やがて見かねた村人が直訴する。かくしてハンガリー国王マーチャーシュ2世が直々に事件解明に乗り出した。
 チェイテ城が捜索されたのは1610年12月のこと。任務を仰せつかったツルゾ侯(エリゼベートの従兄弟)は地下室に降り立つなり仰天した。数多の拷問用具。数多の血糊。数多の屍体。或る者は乳房をえぐられ、或る者は肉を刻まれ、また或る者は頭をグチャリと潰されていた。体中穴ボコだらけの娘もいる。何人かの娘が救出されたが、無事とはとても云い難かった。彼女たちは死んだ仲間の肉を喰うことを強要されていたからである。

 裁判は1611年1月、ビツシェに於いて行われた。しかし、エリゼベートは出廷を免除された。バートリ家の嘆願書が受理されたのである。彼女は死刑になることさえ免れた。かたやツルコ以下の取り巻き連中は、いずれも生きたまま火あぶりにされた。
 エリゼベートの身の上はバートリ家の一存に委ねられた。一族協議の結果、彼女は死ぬまでチェイテ城に幽閉されることが決定された。彼女は、扉は疎か窓までも漆喰で塗り固められた小部屋に閉じ込められた。トイレもなく、光りもなく、虐める娘もいない世界。彼女はもう、己れの白い肌をうっとりと眺めて自愛に耽ることも出来ない。いっそ火あぶりの方がマシだと思ったことだろう。3年目に死亡。しかし、伝承によれば、彼女は森に脱走し、食人鬼になったという。私は後者を信じたい。だって、その方が面白いんですもの。

「エリゼベートの大胆さはジル・ド・レエの嬰児殺しを連想させる。が、ジルと彼女の間には決定的な相違がある。ジルは常に悪魔ないしは神に目を向けた夢想家肌の男であり、悪事を犯すごとに悔恨の念に苛まれていた。一方、伯爵夫人の心には悲願に対する憧憬はまるでなく、悔恨の念はついぞ萌したことがない。
 真の人間的な恐怖は死そのものではなく、カオスとも云うべき虚無の兆しであるべきだろう。生涯の最後に悔悟し、喜んで処刑台にのぼったジルは、その点においてきわめて人間的であった。しかるに伯爵夫人は、最後まで怖ろしい虚無の暗黒に身をさらしながら、自己自身という唯一の豪奢につつまれて、孤独のうちに死ぬのである。彼女ほど極端なナルシスト、極端な自己中心主義者は世にもあるまい」
(澁澤龍彦著『世界悪女物語』より)

 エリゼベート・バートリの事件は、これまで何度か映画化されている。中でも、英ハマー製作の『鮮血の処女狩り』(1970)と、『悪魔の墓場』のホルヘ・グロウが監督した『悪魔の入浴・死霊の行水』(1972)の2本が比較的有名である。いずれも、わざわざ探して観るほどのものではないが、興味を持たれた方は探してみるのもよいだろう。


参考文献

『世界犯罪者列伝』アラン・モネスティエ著(宝島社)
『世界悪女物語』澁澤龍彦著(河出書房新社)
『吸血鬼幻想』種村季弘著(河出書房新社)
『ドラキュラ学入門』吉田八岑・遠藤紀勝著(社会思想社)
『世界残酷物語(上)』コリン・ウィルソン著(青土社)
『世界の悪女たち』マーガレット・ニコラス著(社会思想社)
『エロスの涙』ジョルジュ・バタイユ著(リブロポート)


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