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  今、私の手元に『Lady Killers』という本がある。「女ったらし」の本ではない。「女性殺人鬼」のデータベースである。 
 この本を読んで判ることは「女性には連続殺人犯こそ少ないが、その凶悪さは男性に勝るとも劣らない」ということである。 
 例えば、ポーリン・デュビッソン。独占欲を異常に肥大させた彼女は、恋人の1人(つまり、彼女には恋人が何人もいた)が彼女と別れて婚約すると、嫉妬に狂ってこれを殺害した。 
 例えば、ポーリン・パーカー&ジュリエット・ヒューム。この2人の少女は同性愛の関係を解消されることを恐れるあまりに、母親を煉瓦で殴り殺した。 
 例えば、ベル・ガネス。この「女青ひげ」は新聞広告を通じて夫を募集し、『殺人狂時代』を大きく上回るスケールの大量殺戮を繰り広げた。 
 例えば、マイラ・ヒンドレー。ナチスの選民思想にかぶれた彼女は、相棒のイアン・ブレイディーと共に子供たちを拷問の末に屠殺した。 
 そんな中でひときわ目立つのが、メアリー・ブランディーの事件である。凶悪だから目立つのではない。馬鹿だから目立つのである。彼女は父親を殺害した容疑で死刑となった。しかし、その犯行は余りに稚拙で、私には彼女が殺人者だとは到底信じられない。反面、殺人者でないとするならば、彼女は単なる馬鹿である。 
 メアリー・ブランディーは冷酷な殺人者だったのだろうか? それとも馬鹿だったのか? 私は馬鹿であったように思う。果たして読者諸君はどのように思われるであろうか? 
 
 希代の馬鹿娘、メアリー・ブランディーは1720年、テムズ川上流のヘンリー・オン・テムズで生まれた。父のフランシス・ブランディーは裕福な弁護士で、我が国で例えればロータリー・クラブの会員になるような地方の名士、つまり俗物だった。 
 メアリーは決して美人ではなかったが、気立ての良い、愛らしい娘だった。父は彼女の結婚の暁には1万ポンドの持参金を約束した。そんな訳だからメアリーのもとには見合い話が殺到した。ところが、である。ロータリー・クラブの父はどういうわけか、なかなか首を縦に振らなかった。高望みしていたのだろうか? おかげでメアリーは26歳を過ぎても独身だった。このままじゃ行かず後家になっちゃうじゃない。メアリーは多くを望み過ぎる父を少なからず憎らしく思った。 
 
 そんな折り、彼女に熱烈に求婚する男が現われた。ウィリアム・ヘンリー・クランストンである。このスコットランドの陸軍将校は家柄こそ名門だが、ハンディキャップだらけの男だった。チビでアバタでやぶにらみ。その上、後で判ったのだが妻帯者だった。つまり、彼は借金に追われて、持参金に目が眩んで求婚したのである。ところが、メアリーはこの風采の上がらない男に恋をした。否。彼女の境遇を考えれば、誰でもよかったのだろう。メアリーは彼に恋したのではない。結婚に恋していたのである。 
 ロータリー・クラブの父も、彼が貴族の出であることにたいそう御満悦だった。ところが、妻帯者であることを知って激怒した。メアリーも仰天したが、彼を信じた。というか、信じたかったのだろう。 
 
「確かに僕には妻がいる。しかし、この結婚は人生最大の過ちだった。嗚呼、もっと早く君と出会えていたならば…。どうか僕を信じて欲しい。今の妻とはすぐにでも別れる。約束だ。だからどうか、僕を見捨てないでおくれ」 
 
 クランストンは約束を守った。すぐさま妻と離婚した。しかし、その手口は驚くほどに卑劣である。彼はまず現在の妻に手紙を送った。 
「陸軍では妻帯していると出世できない。ついては便宜上、君は私の妻ではなく内縁に過ぎない旨を手紙にしたためて欲しい」 
 善良な妻は彼を信じる。ところが、クランストンは妻からの手紙を親類一同に見せて回り、これを根拠に離婚手続を開始する。つまり「あのアマはこんな手紙を間男に書いていやがりました」と主張したのだ。もちろん妻は否定したが、手紙の存在がなによりの証拠。かくして妻の不貞が認められて、離婚が成立した。 
 こういう人物のことを策士というのだろうか? なれば私は策士にだけはなりたくない。 
 はなしを戻そう。 
 メアリーの母もクランストンを信じた。というか、娘の恋愛を成就させてあげたかった。寛容にも「婿殿」の借金40ポンドを立て替えた。その直後に死亡(これに関しては、病死であることは間違いないようだ)。庇護者がいなくなった以上、2人の結婚は絶望的に思われた。 
 
 さて、ここからは、メアリーを計画的な殺人者とみるか、それとも男に騙されたバカ女とみるかで物語は大きく変ってくる。もちろんメアリーは法廷で、自分は騙されたのだと主張した。彼女の弁明によれば、事のあらましは以下のようなものであった。 
 2人の仲が絶望的となった今、メアリーは神にもすがる心境だった。そんな折り、クランストンからこのような相談を持ちかけられた。 
「僕はミセス・モーガンという魔女を知っているんだ。彼女は媚薬の調合もお手のものさ。それで、どうだろう? 彼女に僕がお父上に好かれる薬を頼んでみようと思うんだが、やってみるかい?」 
 メアリーは二つ返事で承諾した。ニヤリと不吉な笑みを浮かべたクランストンは油紙に包んだ白い粉を彼女に手渡す。 
「これはモーガン夫人に分けてもらったサンプルなんだけど、これで効き目があれば望みはあると云うんだよ。これをお父上の紅茶に混ぜて、効果を確かめてくれないかい?」 
 その薬の効果は覿面だった。お父上は朝食の際には酷く虫の居所が悪かったのだが、午後には人が変ったかのように上機嫌になっていた(この薬物が何であったのかは判明していない。もしかしたら麻薬の類いであったのかもしれない)。これにはメアリーも驚いた。 
「わあっ。この薬ならお父さまも変わるかも知れないわあ」 
 メアリーは魔術に頼ることにした。間もなくクランストンは化粧箱にいっぱいに詰まった白い粉を彼女に手渡す。これが砒素であろうとは、お人好しなメアリーには知るよしもなかった。 
 
 メアリーはクランストンの指示に従い、父の食事に少量づつ「魔法の媚薬」を混入した。翌日にもブランディー氏は胃痛を訴え始めた。そして、みるみるうちに健康は衰え、1週間もする頃には、なんと寝たきりになってしまった。 
「はなしが違うじゃない!」 
 メアリーは殺人者でなければバカである、と私が断言した理由はここらにある。まともな者ならこの時点でクランストンの策略を見抜く筈である。これは毒なのだと。私は彼に騙されたのだと。 
 ところが、メアリーはその後も砒素を食事に混ぜ続けた。小間使いの1人がブランディー氏の残した粥に口をつける。すると、たちどころに気分が悪くなった。粥を捨てると、皿の底にはザラザラした粉が残っている。彼女は御主人様に進言した。 
「お嬢さまに毒を盛られていますよ」 
 ブランディー氏は娘を呼び出し、詰問する。 
「お前、食事になにか混ぜてないかい?」 
 メアリーは真っ青になって部屋から飛び出す。これを見届けた父はこのようにつぶやく。 
「…あの娘も恋するようになったか」 
 この時点でフランシス・ブランディーはすべてを悟ったようだ。2日後に死亡。臨終の直前、メアリーは泣き崩れて、死に行く父に哀願した。 
「どうか許してください」 
「許すとも。私はお前を祝福しているし、神の御加護を願っているよ」 
 まるで映画の一場面のような出来過ぎの科白だが、以上はすべて事実である(らしい)。 
 
 父が死んで、メアリーは慌てた慌てた。あらまあ、あらまあ。このままじゃあたしは縛り首。自室に走り「魔法の媚薬」をムンズと掴むと台所に駆け込み暖炉に投げ込む。あらいやだ、あの人の手紙もヤバいじゃない。再び自室に走ると手紙をまとめてゴミ箱に棄てる。まあ大変。あの人にも知らせなきゃ。早速、愛する人への手紙をしたため、パリへの高跳びを教唆する。 
 花の都で逢いましょう、ボンジュール。 
「この手紙、出してきて下さらない?」 
 召使いに頼むと荷物をまとめて部屋中を見回し、 
「さあ、これで大丈夫」 
 パンパンと手を叩く彼女は、当家の馬丁に依頼する。 
「500ポンド出しますから、私をパリまで連れてって」 
 メアリー・ブランディーは殺人者でなければ馬鹿であるが、殺人者であっても馬鹿である。まず、暖炉に投げ込んだ媚薬は暖炉に火が入っていなかったために燃えなかった。ゴミ箱に棄てた手紙は云わずもがな。召使いに渡した手紙はそのまま警察に渡り、すべての証拠を残したままメアリーは逮捕された。 
 これほど間抜けな殺人者も珍しい。 
 一方、相棒のクランストンはメアリー逮捕の知らせを聞くなり逐電。 
 花の都に逃げました、ボンジュール。 
 しかし、クランストンもメアリーに負けず劣らずの痴れ者である。彼の部屋にはこんな書き置きが残されていた。 
「小生は、砒素のことなど、知りません」 
 誰も砒素のことなど訊いていないのに、勝手に自白してしまっていたのであった。 
 
 メアリーの裁判は1752年3月3日の雛祭りに行われた。訴追側の4人の医師は、次の点で意見の一致を見た。 
「クランストンの書き置きにもあった通り、ブランディー氏は砒素を盛られている。その内臓所見は砒素中毒を示している。そして、メアリーが暖炉に投げ込んだ白い粉末は、紛れもなく砒素である」 
 もちろんメアリーは弁解した。 
「自分の父親に毒を盛る人がこの世にいる筈がありません」 
 しかし、貴方は現に盛ったではありませんか? 
        「それは媚薬だと思ったからです。あの人が、クランストンがそう云ったんです」 
 それを信じたのですか? 
「はい」 
 では、その後、お父上はどうなりました? 
「…寝込みました」 
 それでもその粉末は媚薬だと信じたのですか? 
「…はい」 
 毒だとは思わなかったのですか? 
「…はい」 
 あなたは馬鹿ですか? 
「…そうなのかも知れません」 
 陪審はたった5分の協議でメアリーの有罪を評決。約1ケ月後の4月6日、オックスフォード城内の公開絞首台には、両手を黒い布で縛られたメアリーの姿があった。彼女はその死の間際まで、父を殺すつもりはなかったと主張していた。最後の言葉は以下の如く。 
「見苦しくないように、あまり高く吊さないで下さい」 
 一方、パリに逃げたクランストンは、メアリー処刑の6ケ月後に貧困のために死亡。メアリーの怨念が通じたのか。いずれにしても、悪いことは出来ないものである。 
 
 なお、この事件にはオマケがある。 
 公判を前にしたメアリーは、検察官から父の遺産の総額を聞いて仰天した。なんと4千ポンドに満たなかったのである。悪漢クランストンを引きつけた1万ポンドの持参金など、そもそも存在しなかったのだ。メアリーはこの時に初めて、縁談を悉く断わり続けてきた父の真意を理解する。つまり、こういうこと。ブランディー氏は見栄だけは人一倍。1万ポンドの持参金を豪語したものの、これを出捐するだけのあてはなかった。しかし、いざとなって「実はありませんでしたあ」では名士の面目丸潰れ。彼としてはなんとしてでも、娘の結婚を阻止しなければならなかった。 
「お父ちゃん。あんたって馬鹿やねえ…」 
 と、メアリーが云ったかどうかは判らない。とにかく、娘も馬鹿なら親も馬鹿。フランシス・ブランディーは自分の蒔いた種で死んだのである。しかもその娘は、ありもしない遺産を手に入れるために父親に毒を盛っている。 
 驚くほどに悲惨な世界。 
 事実は小説よりも奇なり。まったくである。 
 臨終の席での、泣き崩れるメアリーに対するブランディー氏の言葉がここで皮肉に響き渡る。 
「お前を恨むなんて、どうしてそんなことが私に出来るんだい?」 
 たしかに、そんなことがお前には出来る筈がねえよなあ、フランシス。 
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