スティロウ・クリストフィ
Styllou Christofi (イギリス)



スティロウ・クリストフィ

 1954年7月29日午前1時、ロンドン北部のハムステッドで、取り乱した中年女性が急に車道に飛び出した。通りかかったバーストフ夫妻が何事ぞと車を停めると、女性は両手を振り回しながら片言で何かを叫んでいる。
「たすけて。かじ。かじ。こども、ねている」
 夫妻は彼女を宥めながら指差す方向へと向かった。
 火事というほどではなかった。ボヤでもない。共同住宅の裏庭で、焚き火が燻っているだけである。
 おや? なんだあれは? 焚き火の中にマネキンのようなものが見えるぞ。否。ヒトだ。人間だ。えらいこっちゃ。夫妻は慌てて警察に通報した。

 警察が現場に駆けつけたちょうどその時、この家の主人、スタブロス・クリストフィも仕事を終えて帰宅した。
「妻です。妻のヘラです。いったいどうしてこんなことに…」
 ヘラ・クリストフィは頭を鈍器で繰り返し強打された上、首を絞められていた。直接の死因は絞殺である。キッチンからは血のついたレンジの受け皿が見つかった。また、ハサミで切断されたスカーフも落ちていた。おそらくこのスカーフで首を絞めた後、ほどけなくなったのでハサミで切ったのだろう。
 第一容疑者は、誰が考えても「かじ。かじ」の中年女性、ヘラの姑であるスティロウ・クリストフィ(53)だった。息子のスタブロスでさえも、彼女以外に犯人は考えられなかった。

 スティロウ・クリストフィがキプロス出身のギリシャ人でなかったならば殺人には至らなかったかも知れない。
 当時イギリス領だったキプロスでは、何世紀にも渡ってギリシャ人とトルコ人との間で熾烈な争いが繰り返されて来た。そのような過酷な環境の中では家族間の確執も凄まじく、侮辱されれば報復することが当り前だった。死をもって報復することさえも許される社会だったのだ。
 事実、スティロウは1925年に身内の不和から姑を殺害している。2人の村人に姑の口を開かせて、火のついた松明を押し込んだのだ。それでも彼女は罪を問われなかったのである。

 息子のスタブロスはそんな環境を嫌って故郷を捨てた。皿洗いをしながら船賃を稼ぎ、ロンドンに渡って身を粉にして働いた。おかげで今では『カフェ・ド・パリ』のソムリエの地位にまで出世した。ドイツ人の妻ヘラを娶り、3人の子供にも恵まれた。何もかもが順風満帆に思えたが、忌わしき過去が彼の前に立ちはだかった。あの母親が転がり込んで来たのである。

 スタブロスには母親の同居を拒めなかった。なにしろ一人息子なのだ。しかし、英語をロクに話せず、都会暮らしなどしたことのない母親は毎日のようにトラブルを起こした。嫁との争いも絶えなかった。昼夜を問わずギャーギャーとギリシャ語でがなり立て、近所迷惑なことこの上ない。あまりのことに母親を別のアパートに住まわせたが、そこでも騒動を起こして追い出された。もうこれ以上、我慢できない。遂には嫁が別居を申し出るに至った。
「お母さまが故郷に帰るまでは実家に帰らせて頂きます」
 おそらくスティロウは、この嫁の振るまいを最大の侮辱と受け取ったのだろう。そこで死をもって報復したのである。かつて姑にそうしたように。故郷では許された行為だったのだ。

 逮捕された彼女は知らぬ存ぜぬで押し通したが、当日の午前12時頃、つまり彼女が助けを求める1時間前に焚き火で「マネキン」を焼いているところを隣人に目撃されていた(目撃者はまさか嫁さんを焼いているとは夢にも思わなかった)。また、ヘラの結婚指輪がスティロウの部屋から発見された。これだけ証拠が揃うと反証は難しい。弁護人は心神喪失を主張しようと試みたが、これにスティロウは喰ってかかった。
「たしかに、あたしにはきょうようはない。だけど、あたしはきちがいなんかじゃない。ぜったいに、ぜったいにきちがいじゃない」

 かくしてスティロウ・クリストフィは、英国では30年ぶりの女性死刑囚となった。そして、最後から2番目の女性死刑囚として絞首台に上った。ちなみに、最後の女性死刑囚は、当館で既に紹介済みのルース・エリスである。
 なお、ルース・エリスが愛人を殺害した場所と、スティロウ・クリストフィが嫁を殺害した場所とは、奇しくもハムステッドの同じ通りに面している。


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
週刊マーダー・ケースブック40(ディアゴスティーニ)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス )


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