カール・デンケ
Karl Denke (ドイツ)



カール・デンケの遺体

 カール・デンケは数多いる「肉屋」の中でも特にユニークな存在である。ミニョネット号事件のような極限状態の人喰いでない限り、カニバリズム(人肉嗜食)と変態性欲は通常切っても切れない関係にある。ところが、デンケの場合は違った。彼は単に経済的目的のためだけに人肉を口にしたのである。

 1924年12月21日深夜、ミュンスターベルクの地主の召使ガブリエルは男の助けを求める叫び声に眼を覚ました。すわ、強盗っとガブリエルは御主人様を助けに階下に飛んだ。しかし、彼の眼に飛び込んできたのは、浮浪者の脳天に斧を振るう御主人様の姿であった。
 ガブリエルは警察を呼び、この屋敷の主人カール・デンケは逮捕された。屋敷内を捜索すると、12人の浮浪者の身分証明書や彼らの衣服、そして塩漬け肉の入った樽と骨や脂身を入れた瓶が大量に発見された。

 デンケは地元では「パパ・デンケ」の愛称で皆から愛された町の名士であった。いくつもの借地や農地を所有する大地主で、日曜のたびに町の教会でオルガンを弾いていた。
 そんな彼が何でまた?
 町の人々はしばらくは納得できなかった。
 しかし、第一次大戦の後遺症は、町の人々の想像以上にこの地元の名士を蝕んでいた。彼は極度のインフレ下にあって、自らの富を失うことを恐れる余りに発狂した。そして、以下のような奇妙な経済学が彼の狂った頭を支配した。
「供給が不足すれば価格は上昇する。しかし、私は高いものは買いたくない。町の人々も同じだろう。ならば、私が供給を作ればよい。さすれば価格は下がり私も潤う。町の人々も喜び一石二鳥である」
 デンケの当面の問題は肉不足。肉の供給、肉の供給と呟きながらあたりを見回すと、そこには大量の浮浪者がいた。

 1921年から24年にかけて、デンケは「安い肉の供給」を目指してせっせと浮浪者を殺した。まだ商品開発の段階だったので、屠殺したのはせいぜい50人程度だった。それでも相当に成果を上げ、そろそろ試験的に「デンケ牧場のヒューマン・ジャーキー」は市場に出始めていた。卸し業者は飼育場もない農家のデンケがどうしたら肉を売ることが出来るのか不思議に思ったが、デンケの売る肉はとにかく安かったので仕入れを拒む者はいなかった。

 商品開発の過程でデンケは多くの人肉を口にしている。真面目な彼は、子供や女の肉が柔らかいことは勿論、年齢別の肉の性質、味、加えられるべき適切な塩加減等について詳細にメモをとった。この研究は召使いや女中たちには秘密だったが、彼らはデンケのマーケッティング調査の犠牲になった。彼らの食事には必ず「商品」が供され、食後にはアンケートの提出が義務づけられていた。人肉の一般家庭への普及にここまで熱心に打ち込んだ人を私は知らない。いかにもドイツ人らしい、几帳面な人物であった。

 逮捕されたデンケは、間もなく独房の中で首を吊って自殺した。
 しかし、几帳面な彼は「仕入帳」を作成していた。そこには素材の氏名、性別、年齢、人種、体重、死亡年月日、仕入にかかった費用に至るまでが事細かに記録されていた。おかげで裁判を経なくても、その犯行の全貌を知ることができたのである。


参考文献

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
『カニバリズム』ブライアン・マリナー著(青弓社)


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