ジョン・ウェイン・ゲイシー
John Wayne Gacy (アメリカ)



ジョン・ウェイン・ゲイシー

 何故かこの男は人気があるのだ。たしかに、ピエロに扮装したり、ヘタクソな絵を書いたりと、子供たちに受ける要素が揃っている。しかし、彼がしたことに眼を向けると胸糞が悪くなる。こいつは33人もの少年を犯し、拷問して無惨に殺害したのである。彼をアイドル視する風潮には、私は賛成できない。

 1978年12月11日、イリノイ州シカゴ近郊の町、デ・プレインでの出来事である。15歳のロバート・ピーストが、近所のファーマシーで改築工事の寸法取りをしていた男に「うちでアルバイトしてみないか?」と誘われて出掛けたまま行方不明になった。深夜の11時を過ぎても帰って来ない。心配した両親は警察に届け出た。
 ロバートを誘い出した男の名はジョン・ウェイン・ゲイシーであることはすぐに判った。この町でリフォーム会社を経営している。彼の前科をシカゴ警察本部に問い合わせた刑事は、ロバートが事件に巻き込まれたことを確信した。ゲイシーには少年に性行為を強要したかどで服役した過去があったのだ。

 ゲイシーは知らぬ存ぜぬで押し通したが、彼の家に足を踏み入れた刑事はかすかな異臭に気づいた。それは殺人現場でたびたび嗅いだことのある臭いだった。令状を取って床板を剥がすと、出るわ出るわ、最終的に28体にも及ぶ腐乱死体が発掘された。更に5体がデ・プレイン川に投げ込まれていた。その中にはロバート・ピーストの遺体も含まれていた。



ジョン・ウェイン・ゲイシー

 ジョン・ウェイン・ゲイシーは1942年3月17日、イリノイ州シカゴに生まれた。高圧的な父、ジョン・スタンリー・ゲイシーが後の大量殺人鬼の製造に一役買ったことはまず間違いないだろう。病弱だった一人息子(上と下は娘)を彼は虐待し続けた。怒鳴りつける、鞭を振う等の他にも、精神的に息子を痛めつけた。如何に期待はずれの息子であるかを当人の前で滔々と語った。息子の癲癇を仮病だと決めつけ、
「このままだと、お前はいつかホモになっちまうぞ」
 などと罵った。こんなこともあった。6歳のころのゲイシーはパルという名の雑種犬を可愛がっていた。ところが或る時、息子の腑甲斐なさに腹を立てた父親は、見せしめにパルを射殺した。
 後にゲイシーの精神を鑑定した医師は、彼のことをこのように述べている。

「人から非難された時、彼は決まって云い逃れをしようとする。どんなに不利な状況でも責任を転嫁し、自分をよく見せるために真実をねじ曲げてしまう」

 この性格は幼少の頃から培われたものなのだ。彼は成人するまで父から謂れなき非難を浴び続け、その云い逃れをしながら生きてきたのである。父に認められることが彼の行動原理のすべてだったと云っても過言ではない。自警団や市議会議員の選挙運動に積極的に参加したのはその現れである。しかし、父は彼のことを決して認めようとはしなかった。



床下は屍体でいっぱい

 成人し、靴のセールスマンとしてかなりの成績を修めたゲイシーは、1964年9月にマリリン・マイヤーズと結婚する。彼女の父親は地元ではかなり成功した実業家で、ゲイシーはケンタッキー・フライドチキンのフランチャイズ店の経営を任せられた。青年商工会議所でも積極的に活動し、1男1女にも恵まれ、あんなに否定的だった父も彼のことを認め始めた。なにもかもが順風満帆かに思われた。ところが、そんな或る日のこと、彼は少年に性行為を強要したかどで逮捕されてしまう。

 まさに青天の霹靂だが、彼の男色癖は今に始まったことではなかった。18の時にガールフレンドと初めてそういう関係になったゲイシーは、ペッティング中に癲癇の発作を起こして気を失ってしまう。それ以来、彼は女性に対してある種の恐怖心を抱くようになった。そして、セールスマン時代に酔った勢いで同僚と男色関係を結び、そっちの世界にのめり込んで行く。フライドチキンの店長になってからは、アルバイトの少年たちに常習的に手を出すようになっていたのだ。
 この件でゲイシーは、妻子をはじめ、今まで積み上げてきたものを何もかも失った。彼に一目置くようになった父親も、失意のうちに死亡した。



ゲイシーの落書きはプレミアがついていたりする

 1970年、出所したゲイシーはデ・プレインでリフォーム業を始めた。かつてのセールスマンとしての腕前は健在で、会社は順調に売り上げを伸ばして行った。地元の民主党支部にも積極的に顔を出し、ポゴという名のピエロに扮して小児病棟や孤児院を慰問した。1972年6月にはハイスクール時代からの知り合いのキャロル・ホフと再婚し、第2の人生は順風満帆かに思われた。ところが、キャロルとの結婚の7ケ月前に、彼は既に最初の殺人を犯していたのだ。そして、1976年3月に離婚してからは、毎月のように殺し始めた。時には1日に2人殺すこともあったという。最後の5体を川に棄てたのは、もう床下に埋める場所がなくなってしまったからなのだ。

 床下での発掘作業は凄惨を極めたという。掘り進めるうちに地下水が滲み出し、床下は泥の海となった。ポンプで排水しようとしたが、屍蝋化した肉塊がじきに管を詰まらせてしまう。仕方がないのでバケツで汲み出したわけだが、寒い寒い12月のことである。今度は凍りついてしまった。悪臭と地下水と凍てつく寒さのトリプルパンチで、発掘にあたった捜査官は地獄の日々を送ったそうである。

 1980年3月13日、ゲイシーは死刑を宣告され、1994年5月10日に薬物注射により処刑された。その際に手違いが生じたのか、ゲイシーは窒息するまで意識を失わず、絶命するまで18分もかかった。つまり、彼は苦しみながら死んだのである。この件について、検察官のウィリアム・カンクルはこのようにコメントしている。
「被害者の多くはもっと苦しみながら死んだのだ。これでもヤツには不足なぐらいだ」


参考文献

『現代殺人百科』コリン・ウィルソン著(青土社)
『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
週刊マーダー・ケースブック3『シカゴ連続少年殺人事件』(ディアゴスティーニ)
『連続殺人者』タイムライフ編(同朋舎出版)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『SERIAL KILLERS』JOYCE ROBINS & PETER ARNOLD(CHANCELLOR PRESS)


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