ジェラルド&シャーリーン・ギャレゴ
Gerald & Charlene Gallego (アメリカ)



ギャレゴ夫妻

 1980年11月1日深夜、カリフォルニア州サクラメントでの出来事である。ダンスパーティーを終えたクレイグ・ミラーメアリ・ベス・ソワーズのカップルが駐車場まで来ると、いきなりブロンドの女に銃を突きつけられた。
「さあ、早く乗るのよ」
 彼女は横に停めてあるバンを差して叫んだ。助手席にいる男も銃を向けている。2人は已むなく後部座席に乗り込んだ。そこに友人のアンディ・ビールが通りかかり、ふざけ半分でバンの運転席に乗り込んだ。
「俺んちでもう1杯飲もうぜ、お2人さん」
 ほろ酔い気分のアンディは、すぐに「お呼びでない」ことに気づいた。
「さっさと降りな」
 ブロンドの女はアンディの頬を平手打ちし、引きずり降ろすと、代わりに乗り込んで走り去った。一気に酔いが醒めたアンディは、車のナンバーを憶えていた。そしてすぐに警察に通報した。

 問題のバンは、サクラメントに住む実業家の娘、シャーリーン・ウィリアムスの名前で登録されていた。翌朝、警察は彼女の実家を訪れたが、彼女は知らぬ存ぜぬで押し通した。
 間もなく、クレイグ・ミラーの遺体が近郊の空き地で発見された。後頭部を3発撃たれている。警察はシャーリーンを重要参考人としてしょっぴこうとしたが、既に夫のジェラルド・ギャレゴと共にとんずらした後だった。
 5日後、メアリ・ベス・ソワーズの遺体も発見された。ここでようやく誘拐の目的が判った。メアリは強姦されていたのだ。
 11月17日、シャーリーンの両親から通報を受けた警察は、ネブラスカ州オマハの郵便局に両親から送られた500ドルの為替手形を取りに来たシャーリーンを逮捕した。観念した彼女は司法取引に応じ、すべてを自供した。夫妻はここ2年に渡り、女を誘拐しては性奴にし、殺害していたのである。


 シャーリーンがギャレゴと出会ったのは1977年9月のことである。友達に誘われて出掛けたブラインド・デートの相手がギャレゴだったのだ。
 ギャレゴは筋金入りのワルだった。彼の父も刑務所の看守を殺害したかどで処刑されている。十代前半から強姦や強盗を繰り返し、ムショとシャバを何度も行き来していた。
 一方、シャーリーンは裕福な家庭で何不自由なく育った。しかし、次第にグレ始め、酒やヤクにのめり込んで行った。生まれは違えど、お似合いのカップルだったのである。
 シャーリーンがグレたのは、おそらく「父性の欠如」が原因だろう。彼女の父親は全国チェーンを展開するスーパーマーケットの副社長で、多忙のために娘に構ってあげられなかったのだ。そこに支配的なギャレゴが現れた。彼女は彼の中に「父性」を見つけ、服従したのである。

 1978年 9月11日 ロンダ・シェフラー
             キッピ・ヴォート
 1979年 6月24日 ブレンダ・ジャッド
             サンドラ・ケイ・コリー
 1980年 4月24日 ステイシー・アン・レディキャン
             カレン・チップマン=トゥイッグス
 1980年 6月 6日 リンダ・アグウィラ
 1980年 7月17日 ヴァージニア・モーチェル

 以上の女性がギャレゴの有り余る性欲の捌け口となって惨殺された。

 裁判において、ギャレゴの異常性欲が次々と明らかになった。シャーリーンは7人目の妻だったが、前妻との間にサリーという名の娘がおり、ギャリゴは自分の32歳の誕生日に「お祝い」と称して、まだ8歳の娘を強姦していたのだ。娘との関係はシャーリーンと結婚するまで、すなわち娘が14歳になるまで続けられたという。「おまえ、女だったら誰でもいいのか?」と同じ男として情けなくなる。

 司法取引に応じたシャーリーンは16年8ケ月の刑に留まり、1997年7月に釈放された。
 一方、ジェラルド・ギャレゴは死刑を宣告されたが、執行されぬまま2002年7月18日に直腸ガンのために死亡した。56歳だった。


参考文献

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
週刊マーダー・ケースブック38(ディアゴスティーニ)
『SERIAL KILLERS』JOYCE ROBINS & PETER ARNOLD(CHANCELLOR PRESS)


BACK