ブルーノ・ハウプトマン
Bruno Richard Hauptmann (アメリカ)



広大なリンドバーグ邸


誘拐されたチャールズ・リンドバーグ・ジュニア


現場に残されていた手紙

 チャールズ・リンドバーグを知らない方はおられないと思う。また、その愛児が誘拐され、無惨に殺害されたことも殆どの方が御存知だろう。だが、その犯人として処刑されたブルーノ・ハウプトマンに冤罪の疑いがあることは我が国ではあまり知られていない。中にはリンドバーグ自身が関与していたとの奇説もあり、さすがにこれは眉唾だが、ハウプトマン冤罪説自体にはかなりの信憑性がある。以下、具体的に検証してみよう。

 それは1932年3月1日火曜日の出来事である。リンドバーグ一家はいつもは週末だけをニュージャージー州ホープウェルの自宅で過ごし、それ以外はイングルウッドにある妻アンの実家で暮らしていた。しかし、その週は1歳半の息子、チャールズ・ジュニアが風邪気味で、大事をとって自宅に滞在していた。
 午後8時30分頃にリンドバーグは帰宅した。
「ジュニアの具合はどうだい?」
「だいぶよくなりましたわ。さきほど子守りのベティが寝かしつけました」
「そうか。それは良かった」
 2人は暖炉のそばで食事をとりながら談笑していた。すると、9時10分頃に何か木が割れるような音がした。リンドバーグは不審に思ったが、妻は聞こえないという。気のせいか…。リンドバーグは階下の書斎で仕事の続きを始めた。彼は当時、2つの航空会社で技術顧問を務めていたため、極めて多忙だったのである。
 10時頃、子守りのベティ・ガウが夫妻の寝室のドアを叩いた。
「奥さま、お坊っちゃまはこちらでしょうか?」
「いいえ、いないわよ」
「ならば、旦那さまでしょうか?」
 2人は書斎のリンドバーグに訊ねた。ところが、彼も知らないという。3人は子供部屋へと急いだ。ベッドには凹みが残っていたが、肝心のジュニアの姿はどこにもなかった。
「アン、あの子はさらわれたんだ」
 窓の下のラジエーターには1通の手紙が残されていた。部屋にあるものには手を触れないように命じると、リンドバーグは警察に通報した。

 犯人の手掛かりはごくわずかだった。指紋は手紙からも検出されなかった。その代わり、窓の下にはいくつかの足跡、その脇には三段式の梯子とノミが残されていた。梯子は手製のお粗末なもので、上段の繋ぎ部分が壊れていた。リンドバーグが耳にした「何か木が割れるような音」はこれだったのだ。
 手紙にはこのように書かれていた。

「ご主人へ。5万ドル用意しろ。2万5千ドルは20ドル札、1万5千ドルは10ドル札、1万ドルは5ドル札にするように。金の受け渡し場所は2日から4日後に連絡する。
 世間に公表したり、警察に連絡したりするな。子供の世話はちゃんとする。
 こちらからの手紙であることの目印は、3つの円のマークだ」

 筆跡は稚拙で読みにくく、スペルは間違いだらけだった。例えば「anything」が「anyding」、「good」が「gut」になっている。ドイツ人特有の間違いであることから、犯人は教養のないドイツ人ではないかと思われた。
「3つの円のマーク」とは、末尾に置かれた、重なり合う2つの青い円と、その間の赤い円のことで(左参照)、つまり、これが犯人の署名である。

 リンドバーグはアメリカが世界に誇る英雄である。我が国でいえば全盛期の長島茂雄に匹敵するだろう。その息子が誘拐されたのである。世間は大騒ぎになった。全国から同情の手紙が押し寄せ、その数は2日で20万通にも達したという。リンドバーグ邸には地元の警察やFBIだけでなく、慇懃無礼なマスコミ連中も大挙して押し寄せた。リンドバーグとしては、事件そのものはもちろんだが、こいつらも十分煩わしかったことだろう。
 犯人もこの大騒ぎにやきもきしていたようである。3月5日に届いた「3つの円のマーク」付の手紙の中で、警察に通報したことを抗議し、
「連中が静かになるまでは取引には応じられない」
 と長期戦の構えを見せた。
 そんな中で獄中のアル・カポネが「俺を釈放してくれたら赤ん坊を取り戻してやろう」と申し出た。当局はにべもなく突っぱねたが、リンドバーグ自身は暗黒街の仲介が必要だと感じ始めていた。ところが、実際に仲介役になったのは、風変わりな老いぼれ紳士だった。



ジョン・フランシス・コンドン

 事件から1週間が経とうとしていた頃、72歳の非常勤講師ジョン・フランシス・コンドンがブロンクスの地元紙に広告を出した。事件が進展しないことに業を煮やした彼は、仲介役に名乗りを上げ、加えて自らの生活の蓄え1000ドルも提供する旨を表明したのである。当初は世間も彼の家族も冷ややかだったが、犯人にとっては渡りに舟だったようだ。翌日にも「3つの円のマーク」付の手紙がコンドンの元に届いた。手紙の中で犯人は、コンドンがリンドバーグから金を受け取った後、『ニューヨーク・アメリカン』紙に「金を用意した(Mony is Redy)」と広告を出せと要求していた。
 コンドンから連絡を受けたリンドバーグは当初は半信半疑だったが、「3つの円のマーク」のことを聞くや小躍りした。間違いなく犯人だ。早速コンドンに会い、3月11日付で広告を出した。
「金は用意した。ジャフシー」
「ジャフシー(Jafsie)」とはコンドンのイニシャル「JFC」の意味である。
 その晩、コンドンはドイツ訛りの男からの電話を受けた。男は次の連絡があるまで毎日午後6時から部屋に待機しているようにとだけ告げると電話を切った。
 なお、電話の最中、コンドンは別の男が「スタッティ・ツィット」と叫ぶのを聞いている。イタリア語で「黙れ」の意味なのだそうだ。ということは、犯人は少なくともドイツ人とイタリア人の複数犯ということなのか?

 翌日の晩、コンドンの元に手紙が届いた。23番通りの墓地で会おうと書かれている。コンドンは元ボクサーのアル・ライクを用心棒に従えて墓地に出向くと、門の前にはハンカチで顔を隠した男が立っていた。彼は「ジョン」と名乗り、自分たちは6人組だと話した。うち2人は女で、沖合いの船でジュニアの面倒を見ていると云う。その際、ジョンが気になる言葉を口にした。
「赤ん坊が死んだら、俺は焼かれるのかな? 俺が殺したんじゃなくても焼かれるのかな?」
「まさか子供は死んだんじゃないだろうな?」
「いや、大丈夫だ。元気にしてる」
 そう云うと、今後の交渉の取り決めをして、2人は別れた。

 3月16日、コンドンの元に小包が届いた。中には金の受け渡し方法を書いた手紙と、子供用のパジャマが入っていた。それはリンドバーグによりジュニアのものであることが確認された。
 そして4月2日、ようやく金の受け渡しが実現した。リンドバーグは警察に関与しないように要請していたが、手を拱いて見ているわけにも行かない。紙幣の番号をすべて控えさせ、しかも3万5千ドル分を追跡しやすい金兌換紙幣で支払うように求めた。
 コンドンとリンドバーグが指示に従って例の墓地に出向くと「やあ、先生」という声が聞こえた。「ジョン」である。コンドンが金を手渡すと、ジョンはジュニアの居場所が書かれた手紙を手渡し、闇の中へと消えた。
「子供はマサチューセッツ州エリザベス島付近に停泊しているネリー号の中にいる」
 翌朝、リンドバーグは自家用機を飛ばして捜索したが、ネリー号は遂に見つからなかった。騙されたのだ。リンドバーグも警察も、善かれと思って協力したコンドンも途方に暮れた。



チャールズ・リンドバーグ・ジュニアの遺体

 それから5週間が経った5月12日、2人のトラック運転手がリンドバーグ邸から7キロほど離れた林の中でジュニアの遺体を発見した。その腐敗の状況から、誘拐された直後に殺害されたものと推定された。

 犯人に騙されるわ、子供は殺されるわで踏んだり蹴ったりである。地元の警察やFBIとしては何としてでも犯人を捕まえなければならなかった。そのために強引とも思える捜査を行った。
 警察はリンドバーグ邸内部に共犯者がいるのではないかと睨んでいた。前述したが、リンドバーグ一家が火曜日の晩に自宅にいたことはこれまで一度もないのである。そこで使用人全員が疑われ、厳しく尋問された。中でも子守りのベティ・ガウが特に疑われたが、彼女は気丈にも耐え抜いた。しかし、小間使いのヴァイオレット・シャープは耐えられなかった。供述の矛盾を指摘された彼女はノイローゼに陥り、6月10日に服毒自殺した。

 時は流れて1934年9月16日、ニューヨークのイーストサイドにあるガソリンスタンドの店長が、客から10ドルの金兌換紙幣を受け取った。その年の5月に金本位制度が廃止されたため、金兌換紙幣は回収が進められていた。店で使う客はもうほとんどいなかった。
「旦那、普通のお札でお願いできませんかね?」
「大丈夫だよ。どこの銀行でも受け取るよ」
 そう云うので店長は了解し、釣り銭を払った。しかし、念のため、紙幣の裏に車のナンバーを控えておいた。
 実は身代金の金兌換紙幣はこれまでにも何枚も発見されていたが、いずれも使った者を特定することは出来なかった。ところが、このたびは店長の機転で特定できた。その車の所有者の名はブルーノ・ハウプトマン。後に犯人として処刑されることになる人物である。



ブルーノ・ハウプトマン

 ハウプトマンはまさに警察が犯人像として望んだ通りの人物だった。ドイツ生まれの大工で、しかも前科者だった。ドイツで強盗を働き、仮釈放されたのを機にアメリカに密入国したのである。その背格好も「ジョン」に一致している。逮捕された時に所持していた20ドルの金兌換紙幣はすべて身代金の紙幣番号と一致した。更に、彼のガレージからは念入りに隠された1万4千ドル分の身代金が発見された。

 金について、ハウプトマンは仕事仲間のイシドール・フィッシュから預かったものだと弁明した。フィッシュは1933年の暮れにドイツに帰国し、翌3月に肺結核で死亡した。彼に7500ドルの貸しがあったハウプトマンは、遺品の金兌換紙幣をその弁済に充てていた…。
 あながちあり得ない話ではない。フィッシュは実在した人物である。ポーランド系ユダヤ人で、当初は毛皮屋の裁断職人として働いていたが、やがて詐欺に手を染めるようになる。幽霊会社の名を騙っては嘘の投資話を持ちかけて知人たちから金を巻き上げていたらしい。地道に株式投資で利益を上げていたハウプトマンは、いわばフィッシュの資金洗浄係だったのだ。
 そして、問題の身代金は以前から暗黒街で1ドルにつき40セントで洗浄されていた。この金が巡り巡ってフィッシュに渡ることは十分にあり得るのだ。しかし、ハウプトマンにはそれを証明する手立てがない。フィッシュが死んでしまった今となっては尚更である。

 次に、身代金要求の手紙について検証しよう。
 まず、筆跡であるが、鑑定結果は真っ二つに分かれた。アルバート・D・オズボーンはハウプトマンのものではないとの判断を下したが、その父親であるアルバート・S・オズボーンはハウプトマンのものだと太鼓判を押した。すると、息子は前言を翻した。父親の権威に負けたという感じもしなくはない。後に鑑定した専門家はハウプトマンのものであることに否定的であることを付言しておこう。
 また、検察は裁判において、ハウプトマンも手紙と同じような「ドイツ人特有のスペルの間違い」をすることを指摘し、その手書きを証拠として提出したが、ハウプトマンはそのように書かされたのだと主張した。その真偽は不明だが、やはりあり得ない話ではない。

 ハウプトマンの有罪を決定づけたのは、現場に残されていた梯子である。その横板の1つがハウプトマンの自宅の屋根裏の床板であることが証明されたのだ。しかし、ハウプトマンの本業は大工である。材木などいくらでも手に入る筈だ。その彼がどうしてわざわざ床板を剥がして梯子に使ったのか?
 また、梯子の作りが雑だった(現場で壊れてしまった)ことにハウプトマンは最後までこだわり続けた。
「私は大工だ。あんな粗悪なものを作る筈がない」
 梯子に関しては、警察が証拠を捏造した可能性が指摘されている。

 また、ハウプトマンの自宅の戸棚の扉には仲介役たるコンドンの電話番号が書かれていたことも有力な証拠となった。しかし、これは『ニューヨーク・デイリー・ニュース』のトム・キャシディという記者が書いたでっち上げだったのである。そのことが発覚したのは公判後のことだった。

 次に、アリバイであるが、ハウプトマンは誘拐があった日は午後5時まで、ニューヨーク72丁目のアパートで大工仕事をしていたと主張した。これが事実ならば、午後9時にニュージャージ州ホープウェルで犯行に及ぶのはかなり困難である。現場監督のジョセフ・ファークトは、当初はハウプトマンの主張を裏づけていた。ところが、公判では前言を翻した。押収された作業時間記録表も、アリバイを否定する方向に改竄されていた。



ブルーノ・ハウプトマン

 明らかにハウプトマンを有罪にしようとする見えざる力が働いている。現場に残された2種類の足跡から当初は複数の犯行とされていたが、いつの間にかハウプトマンの単独犯に塗り替えられてしまった。現場付近で梯子を積んだ車を運転するハウプトマンを目撃したという証人も87歳の老人で、その証言はかなり疑わしい。また、弁護人のエドワード・レイリーはリンドバーグの熱烈なファンだった。彼がおざなりの弁護しかしなかったのは、ハウプトマンを有罪にしたかったからだとしか思えない。
 たしかに、ハウプトマンをシロと断定することは難しい。しかし、彼に対して公正な裁判が行われたとはとても思えないのである。

 では、ハウプトマンがシロだとして、いったい誰が真犯人なのか? 今日に至るまで様々な説が唱えられているが、ここでは突飛なものを紹介するに留めよう。
 その1つは、そもそも誘拐事件などなかったというものである。ジュニアを殺害したのは妻アンの姉、エリザベス・モローだというのだ。
 エリザベスはリンドバーグに恋心を抱いていたが、彼が選んだのは妹のアンだった。それが原因で精神的に病んだエリザベスが嫉妬に駆られてジュニアを殺害、リンドバーグはこれを隠蔽して家名を守るために誘拐事件をでっち上げた…。しかし、この説には何の根拠もない。話としては面白いが、到底信じられるものではない。
 また、自分がそのジュニアだと名乗りを上げた者もいる。誘拐された後、ギャングの隠し子として育てられたのだそうだ。誘拐はアル・カポネの部下たちが親分をシャバに出すために仕組んだものということだが、だとすれば発見された遺体は誰なんだ?

 とにかく、謎の多い事件である。唯一確かなことは、ハウプトマンは不公正な裁判により有罪となり、1936年4月3日に電気椅子で処刑された。このことのみである。


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
週刊マーダー・ケースブック30(ディアゴスティーニ)
『未解決事件19の謎』ジョン・カニング編(社会思想社)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


BACK