マリー・ヒリー
Marie Hilley (アメリカ)



マリー・ヒリー


ヒリー一家

 アラバマ州アニストンというごく普通の町で起こった、極めて異常な事件である。
 主人公のマリーはごく普通の主婦だった。学生時代にフランク・ヒリーと結婚し、一男一女に恵まれた。マイクキャロルである。フランクは海軍に入隊していたが、マリーと離れて暮らすのが辛くて除隊した。その後、製鉄所に勤めた彼は今では主任になっていた。どこから見てもごく普通の家族である。しかし、たった一つだけ普通でないところがあった。それはマリーの浪費癖だ。家族は誰も知らなかったが、彼女は多額の借金を抱えていた。

 1975年5月23日、夫のフランクが急死した。激しい嘔吐に襲われて入院し、5日間苦しみ抜いた挙句に息を引き取ったのだ。死因は伝染性の肝炎と診断された。彼の死によりマリーは3万ドルの保険金を受け取った。
 まとまった金を手にしたマリーは、以前にも増す勢いで浪費を始めた。車を買い替え、貴金属や洋服、家具を買い漁った。まだ学生のキャロルにはバイクとステレオを、マイクとその妻には冷蔵庫と洗濯機を買い与えた。また、フランクの死を嘆く義母にはダイヤの指輪を贈与した。

 マリーが保険金を使い果たした頃、彼女の家には頻繁に脅迫状が届くようになった。
「お前の家に火をつけてやる」
 脅迫通りに家が焼け、マリーは保険金を受け取った。
 その金を使い果たした頃、今度は泥棒に入られた。ところが、運のいいことに、彼女は盗まれた貴金属すべての写真を撮っていた。彼女はまたしても保険金を受け取った。
 その後もたびたび泥棒に入られ、脅迫電話に悩まされた。そのたびに警察が呼ばれ、遂には彼女の電話に逆探知装置が取り付けられたが、途端に脅迫電話はかからなくなった。
 再び家が燃えると、彼女は土地を売り払いアパートを転々とした。この頃になってようやく親類は気づいた。どうやら彼女は借金取りから逃げているようだと。

 やがて、マリーはフランクの両親の家で暮らすようになった。この頃から彼女に奇行が目立ち始めた。それまで好きだった恋愛小説には眼もくれず、オカルト本に熱中した。深夜にあてもなく徘徊したり、鏡の自分と話すようになったというからヤバ過ぎる。
 これにリンクするかのように、娘のキャロルの具合が悪くなった。 その症状はフランクとほぼ同じである。マリーは夫の時と同様に献身的に看病し、おかげでキャロルはみるみる痩せて、立つことも出来なくなってしまった。
 医師たちは拒食症と思っていたらしい。ところが或る日、キャロルの口からとんでもない話が飛び出した。医師が処方する薬とは別に、母親から乳白色の液体を注射されているというのだ。慌てて検査したところ、キャロルの体内から大量の砒素が検出された。

 通報を受けた警察は、フランクの死にも疑念を抱いた。掘り起こされたフランクの遺体は、死後4年も経っているというのに殆ど腐敗していなかった。実は砒素には防腐作用があるのだ。このことはフランクが砒素漬けであることを何よりも物語っていたのである。
 念のために、1977年に死亡したマリーの母、ルシール・フレイジャーの遺体も掘り起こされた。その結果は云わずもがな。肝臓から異常な数値の砒素が検出された。
 一方、当のマリーはというと、なんと別件で逮捕されていた。彼女が振り出した小切手6500ドルが不渡りになったのである。そして、保釈されると同時に逃亡した。彼女が投宿したモーテルには誘拐を示唆する手紙が残されていたが、信じる者は誰もいなかった。
「どこの世界に借金苦のおばはんを誘拐する物好きがおんねん」



テリー・マーティンことマリー・ヒリー

 1979年11月18日に逃亡したマリーは、まずジョージア州に渡り、やがてフロリダ州に落ち着いた。そこで何人もの男を手玉に取って暮らしていたが、最終的にジョン・ホーマンという造船工と同棲を始めた。「リンゼイ・ロビー・ハノイ」と名乗っていた彼女は、11歳もサバを読んで35歳だと騙っていた。図々しい女である。しかし、33歳のホーマンの頭は横山ノック状態で45、6歳に見える。だから彼女も思いっきりサバを読んでみたのだろう。

 まもなく2人は遥か北のニューハンプシャー州に移り住み、1981年5月29日に正式に結婚した。ところが、その頃から「ロビー」は激しい頭痛を訴え始め、テキサス州ダラスに住む双子の妹の勧めで、ドイツにいるという名医の手術を受けるために旅立った。その3週間後、妹の「テリー・マーティン」からホーマンのもとに電話があった。
「姉は死にました」
 もちろんマリー・ヒリーには双子の妹はいない。「テリー・マーティン」とは彼女が創り出した架空の人物である。

 翌日の1982年10月10日、「テリー」がホーマンの前に現れた。ブロンドであることを除けば、驚くほどに「ロビー」とそっくりだった。更に驚くべきことに、彼女は当然のようにホーマンの家に住み着き、「ロビー」が残した服を着て、生前の職場で働き始めたのである。誰もが「何かがおかしい」と思ったが、まさか「ロビー」と「テリー」が同一人物であるとは突飛過ぎて思いも寄らなかった。

 かくしてマリー・ヒリーは「テリー・マーティン」に生まれ変わり、まんまと逃げおおせたかに思われた。ところが、偶然とは恐ろしいものである。当時FBIが追っていた麻薬密売人の中に「テリー・マーティン」という偽名を使う女がいたのである。36歳のブロンドで、これまた符合していた(本当は11歳もサバを読んでいたのだが)。
 1983年1月12日、数人の刑事が「テリー」を取り囲み、事情聴取のために同行を求めた。
「判ったわ。観念するわ。正直云って、もう疲れました。自分が誰だか混乱してしまって」
 混乱したのは刑事たちも同様だった。やがて彼女が指名手配中のマリー・ヒリーである事を知り、アッと驚く為五郎。とんだ棚ぼたの逮捕劇だった。

 騙されたジョン・ホーマンは、それでも彼女への愛を貫いた。
「たとえニセモノでもいい。僕は君を愛しているよ」
 マリーの弁護費用に全財産を投じ、拘置所に近い安ホテルに移り住み、彼女を陰ながら支えた。これには当のマリーでさえ驚いたほどである。しかし、その嫌疑は晴れることなく、娘キャロルに対する殺人未遂の罪で懲役20年を宣告された。

 1987年2月19日、模範囚として3日間の仮出所を認められたマリー・ヒリーは、ジョン・ホーマンとホテルで一夜を共にし、そのまま別れを告げることなく逃亡した。4日後、彼女が子供の頃に住んでいた家のポーチで、ボロボロになって発見された。全身ずぶ濡れの上に痣だらけで、まるで浮浪者のようだった。救急車が呼ばれたが、数分後に体温の低下による心不全のために死亡した。
 我が国にも福田和子という逃亡犯がいたが、その死は孤独で、余りにも悲しい。


参考文献

週刊マーダー・ケースブック80(ディアゴスティーニ)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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