アーネスト・インジェニト
Ernest Ingenito (アメリカ)



アーネスト・インジェニト(もちろん右)

 アーネスト・インジェニト、通称アーニーは1924年、ペンシルバニア州の貧しい家庭に生まれた。満足な教育を受けなかった彼は早いうちから愚連隊に仲間入り。押し込み強盗の常習犯になったボンクラだ。15歳の時に初めて逮捕されている。
 1947年、テレサ・マッツォーリと結婚して2人の息子を儲けたインジェニトは、ニュージャージー州の妻の実家に同居した。これが悲劇の始まりだった。義母のパールは何かとインジェニトを目の敵にし、いつもガミガミと叱りつけた。とても家には居られない。酒場に入り浸り、女の家を転々とするうちにテレサに見放されて三行半を突きつけられてしまう。息子に会いたい一心で何度もマッツォーリ家を訪れたが、そのたびに門前払いを喰わされる始末である。弁護士からは裁判所の許可なくしては息子に会えない旨が通達される。1950年11月17日のことである。キレたインジェニトは拳銃2挺とカービン銃で武装してマッツォーリ家へと向った。かくして息子を取り戻すための戦いの火蓋は切られたのだ。

 玄関のドアを叩くと義父のマイクが顔を出した。
「またお前か。もう来るな。顔も見たくない」
 まずこれを始末し、次いでテレサに2発お見舞いした。幸いにも彼女は一命だけは取り留めた。しかし、インジェニトは仕留めたと思ったようだ。とどめを刺すことなく、義母のパールに標的を移した。
 銃声を耳にしたパールは、慌てて近所の実家に逃げ込んだ。これを追うインジェニト。パールの母親テレサ・ピオッピ、弟夫婦のジノマリオン、そしてその9歳の娘を間髪入れずに射殺した後、クロゼットに隠れるパールを見つけて復讐を果たした。
 これでも納まりがつかなかった彼は義兄の家まで車を飛ばし、ここでフランクヒルダを射殺したところで警官隊に囲まれた。

 家族を皆殺しにされたテレサは「アーニーを縛り首にして!」と訴えた。しかし、願いは叶わず、インジェニトは精神病院に収容された後、終身刑を云い渡された。一晩に8人も殺したにしては随分と寛大な処遇である。


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『THE ENCYCLOPEDIA OF MASS MURDER』BRIAN LANE & WILFRED GREGG (HEADLINE)


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