ジム・ジョーンズ
Jim Jones (アメリカ・ガイアナ)



若き日のジム・ジョーンズ

 オウム真理教の第7サティアンが強制捜査された時に識者が集団自殺を危惧したのは、人民寺院の事件が念頭にあったからだ。912人もの信者が教祖と共に現世を後にした事件である。ところが、蓋を開ければ、麻原はウンコまみれで隠れていた。ジム・ジョーンズとは格が違うなあ、と呆れてしまった。
 だからと云ってジム・ジョーンズを褒めるつもりは毛頭ない。末期の彼は明らかに狂人だった。しかし、当初は慈愛に溢れる聖職者だった筈だ。いったい何が彼を狂わせたのだろうか?

 ジム・ジョーンズことジェイムス・ウォレン・ジョーンズは1931年5月13日、インディアナ州の貧しい家庭に生まれた。KKKのメンバーだった父親は、彼が12歳の時に家族を捨てた。以後、母親のリネット一人の手で育てられた。
 彼が生まれた町はいわゆる聖書地帯で、しかもファンダメンタリスト(聖書を文字通りに信じる宗派)が多い地域だった。不遇な彼は信心にのめり込み、常に聖書を携えるようになった。そして、宣教師の娘、マーセリン・ボールドウィンと結婚したのを機に聖職者の道を歩み始める。

 彼が布教の拠点としたのは貧しい黒人たちのゲットーだった。当然に実入りは悪く、猿を育てては売ることで運営資金を捻出していた。当時の彼を悪く云う者はいない。但し、差別主義者は別だ。黒人に奉仕するジョーンズは「くろんぼ好き」と罵られ、家には投石され、火炎瓶さえ投げられた。この時の屈辱的な体験が後の狂気の元凶になったことは間違いない。
 それでもめげずに布教を続けたジョーンズは、1960年頃にはかなりの信者を集めるようになった。経済的にも潤い、実子のスティーヴンの他にアジア系2人と黒人1人の孤児を養子に迎えた。地域の福祉にも貢献し、彼は貧しい人々にとっての真の救世主になる筈だった。ところが、渾沌とした時代が彼を狂気へと誘っていったのである。

 ジム・ジョーンズの人民寺院が急成長した60年代初頭のアメリカは、反戦デモと公民権運動で沸き返っていた。多くの黒人信者を抱えるジョーンズは、必然的にキング牧師やマルコムX、更には過激派のブラック・パンサーからも影響を受けることになる。その教義は次第にファンダメンタリズムから離れ始め、差別のないユートピアを目指す共産主義へと接近して行ったのである。元ヒッピーの弁護士、ティム・ストーンが彼の参謀となったことでその傾向は強まって行った。
 また、1962年のキューバ危機以降、ジョーンズは核戦争を異常なまでに畏怖するようになった。やがて彼のもとに神のお告げが下る。
「近いうちに核戦争で全人類が死滅するだろう。但し、ブラジルのベロ・オリゾンテと、カリフォルニア州ユキアにいる者だけは生き残る」
 彼は教会の移転を決意した。狂気の暴走はこの時から始まっていた。



全盛期のジム・ジョーンズ

 1965年にカリフォルニア州ユキアに拠点を移したジョーンズの言動は次第に過激になって行った。ある時、創世記のカインとアベルの一節を朗読していたジョーンズは突然、聖書を投げ棄てて、聴衆に向って訴えかけた。
「もしもアダムとイブが最初の人類で、カインとアベルしか子供がいなかったとしたら、ノドの地の住人たちはいったい何処から来たというのだ? あなたたちはそこに黙って座って、こんな出鱈目を読んでいていいのか? 私はでっち上げの神など信じない。空の上に天国などありはしない。我々が暮らしているこの世こそ、唯一の地獄なのだ」
 とても聖職者とは思えない発言である。むしろ革命家のアジテーションだ。しかし、これが受けた。生活に苦しむ者にとっては、彼は怒りの代弁者だったのだ。

 このままならば、ジョーンズは単なる異端者に留まったことだろう。ところが、彼の暴走は止まらなかった。
 多くの連続殺人者がそうであるように、ジョーンズも過剰な性欲を持て余していた。有名になるにつれて、それはますます肥大化した。何人もの女と寝た後でも、まだオナニーできると自慢げに語っていたという。しかも、両刀使いだった。信者たちを男女を問わず喰いまくった。
 その一方で、被害妄想の傾向が強まって行った。「くろんぼ好き」と罵られ迫害された記憶が彼の精神を蝕んでいたのだろう。彼を批判するマスコミには脅迫状を送る、無言電話をかける等の攻撃をしかけた。彼が最も恐れたのはマスコミに情報を流す脱会者だった。その電話を盗聴し、脅迫するネタを掴むためにゴミ漁りまでした。やがてFBIやCIAに狙われていると本気で信じるようになり、盗聴を避けるため頻繁に電話番号を変え、窓から双眼鏡で尾行者を探した。

 ジョーンズの教えはますます異常なものになって行った。夫婦の信者には性行為を禁じた。夫婦の絆が弱まれば、妻が彼のハーレムに加わることは容易になる。一方で、家庭がなくなるのであるから財産を手放しやすくなる。信者たちは全ての財産を彼に寄贈するという寸法である。まさに一石二鳥の妙案だ。ジョーンズが夢見たユートピアは、今や彼の欲を満たすシステムへと変貌していたのだ。
 この頃になると「今のあなたは昔のあなたとは違う」と脱会者が急増し始めた。エルマーとディアンナのマートル夫妻もそうだ。彼らが脱会を決意したのは、差別主義者でないことを証明するために白人信者が黒人信者の性器を舐めることを強要された時である。
 狂っている。この男は狂っている。
 マートル夫妻は脱会すると、ジョーンズを告発する準備を始めた。しかし、それも猛烈な嫌がらせに遭い、断念せざるを得なかった。
 なお、マートル夫妻とその娘は1980年2月に何者かに殺害されている。集団自殺後の出来事なので人民寺院との関連は不明だが、彼らがジョーンズの「暗殺リスト」に名を列ねていたことはまず間違いないだろう。



殺害されたライアン下院議員一行

 ジョーンズを破滅に導いたのは、皮肉なことに、彼の右腕として人民寺院を成長させてきたティム・ストーンだった。
 ティム・ストーンの妻グレースはジョーンズの愛人でもあった。
1972年にはジョーンズの子を出産している。ジョン・ビクター・ストーンと名付けられたこの子をジョーンズは「ジョン・ジョン」と呼び、たいそう可愛がった。しかし、グレースはマートル夫妻の脱会を機に人民寺院に疑問を抱き始め、悩みに悩んだ挙句、遂に脱会を決意したのである。
 ジョーンズの報復を恐れて居所を転々としていたグレースは、弁護士を雇って息子の養育権確認訴訟の準備を始めた。これにビビったのが夫のティム・ストーンである。彼は当時、人民寺院の後押しでサンフランシスコ地方検事補の職に就いていたのだ。彼の脳裏にはこんな新聞の見出しが躍った。
「地方検事補と教祖様、ドロ沼の三角関係!」
 ヤバい。ヤバすぎる。これまで人民寺院を政治的野心の実現に利用してきたツケが一気に回ってきたのである。
 一方、ジョーンズは愛人に裏切られるわ、眼の中に入れても痛くない我が子を返せと訴えられるわで半狂乱となった。そして、信者をまるごと率いて国外逃亡を決断する。これが死への道行きとなるとは、彼らには知るよしもなかった。

 1977年、ジョーンズは1000人近くの信者を引き連れて南米の小国、ガイアナのジャングルを切り開き、ジョーンズタウンを設立した。しかし、ストーンは同行しなかった。妻グレースに寝返ったのだ。ストーンの目標は合衆国での政界進出だ。それがどうして南米に逃げなきゃならんのだ? ジョーンズはまたしても腹心に裏切られた。そして、可愛いジョン・ジョンの引き渡しを求められている。マスコミの批判も過熱し始めた。彼は確実に追い詰められて行った。
 ジョーンズが集団自殺のリハーサルを始めたのはこの頃からだ。彼はそれを「革命的自殺」と呼んだ。ブラック・パンサーの指導者、ヒューイ・ニュートンからの受け売りである。曰く、
「圧政者への黒人の抵抗は、警察の権力行使による死を招くかも知れない。しかし、こうした死は殉教者として自らを捧げるものであり、いわば革命的自殺である」
 これを「尊厳を守るための自殺を通じた抵抗」と曲解したのがジョーンズのそれだ。要するに「捕まるぐらいなら死んでやる」という居直りであり、道連れにされる信者としては堪らない。

 ジョーンズタウンでのジョーンズの言動は更に異常になって行った。脱会者を極度に恐れた彼は武装組織を配備して厳重に取り締まった。それでも脱走を企てる者はリンチされた。その者に娘がいれば、皆の前で裸にされてオナニーすることを強要された。フリーセックスのエロ地獄。これがジョーンズタウンの実態だった。



「ホワイト・ナイト」が明けてこの有り様

 1978年11月14日、マスコミの報道や家族会の要請を受けて、レオ・ライアン下院議員が報道記者たちを従えてジョーンズタウンを視察した。特に目立った問題はなく、事なきを得たかに思われた。ところが、夜になると脱会希望者が記者たちに願い出た。「どうか助けて下さい」と。翌日にそのことをジョーンズに詰め寄ると、彼は酷く傷ついたようだった。
「私は打ちのめされた。もう死ぬかも知れない」
 一行がジョーンズタウンを後にしようとすると、ラリー・レイトンという男がトラックに飛び乗った。
「俺も連れて行ってくれ。ここから出たいんだ」
 しかし、彼はジョーンズの指令を受けた刺客だった。空港には武装した一団が待ち受けていた。彼らが議員たちを銃撃し始めると、レイトンも銃を取り出して、脱会者たちを抹殺した。

「もうおしまいだ。間もなくアメリカの海兵隊がパラシュートで降りて来る。我々は皆殺しにされるのだ。ならばその前に潔く毒杯を仰ごうではないか。これは自殺ではない。革命的な行動なのだ」
 信者たちにはバリウムで割って飲みやすくしたシアン化物が配られた。赤子たちは注射を打たれた。逃げようとする者は銃殺された。
 このシーン、私は十代の頃に深夜のテレビで放映された劇映画で見て衝撃を受けた。教祖がマイクで支離滅裂なことをしゃべり続ける中で、何百という信者が毒をあおり、苦悶しながら死んで行くのだ。しかも、教祖の吹き替えが伊武雅刀だったので、異常な迫力だったことを記憶している。
 そして、すべてが死に絶えた後、教祖は自らのこめかみを銃で撃ち、ジョーンズタウンは死滅したのである。

 これは本当に「革命的自殺」だったのだろうか? 否。誰が見ても無理心中であり、大量殺戮である。オウム真理教の場合は幸いにしてこうはならなかったが、慢心し常軌を逸した教祖が現世に存在する以上、この惨劇は繰り返される可能性があるのだ。


参考文献

『戦慄のカルト集団』ジェイムズ・J・ボイル著(扶桑社)
週刊マーダー・ケースブック6(ディアゴスティーニ)
『現代殺人百科』コリン・ウィルソン著(青土社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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