ドニーズ・ラベ
Denise Labbe (フランス)



ドニーズ・ラベとジャック・アルガロン

 他に「ドニ・ラベ」とも「デニーズ・ラベ」とも表記されるこの女は我が子を殺害したわけだが、その動機が言語道断である。恋人への愛を証明するために殺害したというのだ。理解しろというのが土台無理なはなしである。

 1926年に生まれたドニーズ・ラベは、見るからに「幸薄き女」である。戦争ばかりでなく、父親の自殺も体験した。数え切れないほどの男に弄ばれ、18歳で誰が父親なのだか判らない娘を出産した。悲劇の子、カトリーヌである。
 1954年5月、彼女はサン・シール陸軍士官学校の候補生、ジャック・アルガロン(24)と恋に落ちた。ところが、これが間違いのもとだった。アルガロンはニーチェに傾倒しており、自らを「超人」だと勝手に信じ込んでいたのだ。曰く、

「私は善悪を超越した存在であり、いかなる規範や道徳も私を縛ることは出来ない」

 教養のないドニーズにはチンプンカンプンだったが、なんだかスゴイと思った。そして、彼の妄想に飲み込まれて行った。彼が「ヤらせろ」と云えばすぐにヤらせた。「あの男と寝ろ」と云われればすぐに寝た。しかし「娘を殺せ」と云われた時にはさすがに躊躇した。
「殺さないなら、別れるしかないな」
 ドニーズは必死で抗議したが、アルガロンは聞く耳を持たなかった。
「私を愛しているのなら殺せる筈だ。もし殺すことが出来たならお前と結婚してやる」
「結婚」の二文字がドニーズを突き動かした。そして、渋々ながらも同意したのだ。

 ところが、当り前のことながら、自分の腹を痛めた子を殺すことは口で云うほど容易ではなかった。まだ2歳半の可愛い盛りだ。窓から突き落とそうとしたが、最後の一押しが彼女には出来なかった。なんとか運河に投げ込むことが出来たが、悲鳴を聞きつけた通行人に助けられてしまった。アルガロンにはまだ殺さないのかと急かされる。意を決した彼女は、水を溜めた洗面台に我が子の頭を押しつけて、ようやく「愛を証明」することが出来たのである。1954年11月8日のことである。

 ドニーズは事故死を主張したが、友人たちは疑念を抱き、警察も信じなかった。厳しい追求の結果、ようやく彼女は犯行を認めた。
「たしかに、私は娘を殺しました。でも、あれは儀式だったんです」
 そう釈明すると、アルガロンとの信じられない関係を告白した。

 かくしてドニーズは終身刑を、アルガロンは殺人教唆の罪で20年の重労働を云い渡された。自ら手を下さずに何の罪もない幼児の命を奪うとは、なんとちっぽけな「超人」であろうか。


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『殺人百科』コリン・ウィルソン(彌生書房)
『愛欲と殺人』マイク・ジェイムズ著(扶桑社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)
『LADY KILLERS』JOYCE ROBINS(CHANCELLOR PRESS)


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