メアリー・ピアシー
Mary Pearcey (イギリス)



メアリー・ピアシー

 1890年10月25日早朝、ロンドン北部の高級住宅地、ハムステッドの建設現場で女性の遺体が発見された。頭を殴られ、喉を掻き切られている。付近を捜索した警官は、ゴミ捨て場で乳飲み子の遺体を発見した。死因は窒息である。乳母車は路上に放置されていた。

 ニュースを耳にしたクララ・ホッグは、遺体は義理の姉ではないかと警察に届け出た。前日の午後、1歳半の娘を乳母車に乗せて出掛けたまま行方知れずになっていたのだ。早速、確認を求めたところ、遺体はフィービ・ホッグとその娘に間違いなかった。その際、クララは冷静だったにも拘らず、同行した女性はヒステリックに泣き叫んだ。余りにも大袈裟でだったので、警察は彼女に不審を抱いた。この女性がメアリー・ピアシーだった。

 これは調べてみる必要ありと踏んだ警察は、早々と家宅捜索に踏み切った。すると台所には争った形跡があった。食器は割れ、家具は転がり、壁や床には血が飛び散っている。火掻き棒とナイフには血がこびりついている。犯行現場であることは明白だ。ところが、当のピアシーはというと「あたしゃ関係ありません」ってな風情で、捜索中も平然とピアノをかき鳴らしていやがる。
 何なんだ、この女は?
「おい、この血はなんだ!?」
 問い詰められて、ようやく彼女は動揺を見せた。
「あの、ねずみを…」
「えっ?。何だって?」
「ねずみを…」
「ねずみをどうしたって?」
「ねずみを…殺したんです。そうです。ねずみを殺したんです。だから血みどろなんです。だから血みどろなんですってば」

 彼女の身辺を洗うと、被害者の夫であるフランク・ホッグと愛人関係にあることが発覚した。つまり、これが動機である。ホッグ夫人を亡き者にして、その後釜を狙ったのだろう。彼女をお茶に誘うと火掻き棒を降り降ろしたのだ。
 ピアシーは最後までシラを切り通したが、あらゆる証拠や証言がその有罪を裏付けていた。死刑を宣告された彼女は、その年の12月23日に絞首刑に処された。

 なお、これは後に判ったのだが、彼女の父親も10年ほど前に殺人の罪で処刑されていた。血は争えないものである。


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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