サム・シェパード
Samuel Sheppard (アメリカ)



婚姻当時のシェパード夫妻

「リチャード・キンブル。職業、医師。正しかるべき正義も時として盲いることがある。彼は身に覚えのない妻殺しの罪で死刑を宣告され、護送の途中、列車事故に遭って辛くも脱走した。孤独と絶望の逃亡生活が始まる。髪の色を変え、重労働に耐えながら、犯行現場から走り去った片腕の男を探し求める。彼は逃げる。執拗なジェラード警部の追跡をかわしながら。現在を、今夜を、そして明日を生きるために」

 以上は1963年から67年にかけて放送されて大人気を博し、後に映画化もされた『逃亡者』のオープニング・ナレーションである。我が国でも高視聴率を記録したが、モチーフとなった事件があることはあまり知られていない。放送当時、再審が請求されていたサム・シャパードの事件である。ドラマとシンクロするかのように無罪を勝ち取ったわけだが、現実の事件はハッピーエンドというわけには行かなかった。波乱万丈の生涯はその後も続いていたのだ。

 1954年7月4日の独立記念日、オハイオ州クリーブランド郊外、エリー湖畔のベイ・ビレッジでの出来事である。午前5時45分、村長のジョン・スペンサー・フークは1本の電話に起こされた。電話の主は友人の青年医師、サム・シェパードだった。
「大変なことになった。すぐ来てくれ。あいつらがマリリンを殺した」
 フークと夫人は直ちに駆けつけた。1階は賊に入られたかのように散らかっていた。診療鞄はひっくり返されて医療器具が床に散らばり、机の引き出しはすべて引き出されている。居間のソファには上半身裸のサムがうずくまっていた。顔は傷だらけでスラックスはびしょ濡れだ。
 2階の寝室では、マリリン・シェパードが血まみれのベッドの上で横たわっていた。頭部を何度も殴打されいる。酷い有り様だ。フーク夫人は叫んだ。
「警察を呼んで! 救急車も!  何でもいいから全部呼んで!」

 シェパード家が経営するベイ・ビュー病院に収容されたサムは、事件の概要をこのように語った。
「事件当夜の7月3日はアーン夫妻を招いた食事会だったのですが、病院から緊急電話が入りました。少年が大腿骨折で運ばれたというのです。私は病院に駆けつけると治療を指示して午後9時頃に帰宅しました。昼間には手術をしていたのでクタクタです。夕食を終えると居間のソファで眠り込んでしまいました」
 アーン夫妻によれば、彼らが帰宅したのは午前12時30分である。
「そのままソファで眠っていた私は、突然の妻の悲鳴で起こされました。慌てて2階に駆け上がると、何者かに後頭部を殴られてその場に倒れました。意識が戻ると、妻はもう事切れていました。息子が心配になり子供部屋に行くと、階段を駆け降りるような音がしました。私は走り去る人影を追いました。犯人は髪がふさふさした巨漢で、湖畔まで追い詰めて飛びかかりましたが、物凄い力で首を絞められて再び意識を失いました。波打ち際に顔を突っ込んだ状態で意識を取り戻した私は、濡れたTシャツを脱ぎ捨てると、家に戻ってフークに電話しました」

 サムの供述には矛盾はないかに思える。実際に首を絞められており、ギブスをしなければならないほどの重症だった。ところが、警察はサムを疑った。家には外部から侵入した痕跡がなく、指紋も家族のものしか検出されなかったからだ。また、サムが脱ぎ捨てたというTシャツも見つからなかった。返り血を浴びたために処分したのではなかったか?
 マスコミはこの事件に飛びついた。若きエリート医師に妻殺しの容疑がかけられているのだ。これほど面白い題材はないではないか!
 その報道のされ方はジョンベネ事件によく似ている。大衆の「金持ちに対する嫉妬心」を煽り、憶測だけで報道し、発行部数を伸ばしたのである。まさに屍肉に群がるハイエナの如きである。
 また、サムが糾弾されたのはオステオパシー(整骨医学)の医師だったからだとの指摘もある。繁盛していたベイ・ビュー病院は地元の医師たちからやっかみの眼で見られていた。或る医師はサムの裁判直後にこのように語ったという。
「もしサム・シェパードが我々と同じ地元医師会のメンバーだったら、殺人罪などに問われなかっただろう」
 いずれにしても、サム・シェパードは妻殺しの容疑で逮捕された。ロクな物証がないにも拘わらず、逮捕されたのである。



「手術器具の痕跡がある」とされた部分


法廷で父親から励まされるサム・シェパード

 法廷に提出された証拠はいずれも憶測の域を出ないものだった。
 例えば、マリリン・シェパードの枕についた血痕に関して、地元の検視医サミュエル・ガーバーは「手術器具の痕跡がある」と証言した。つまり、凶器は「手術器具」であり、故に犯人は医者であることを証言したのだが、その「手術器具」が何であるかは特定されなかった。ダメじゃん。
 他にも「どうして飼い犬のココは吠えなかったのか?」とか、決定力を欠くものばかりだった。しかし、サムには致命的な弱味があった。浮気をしていたのだ。そして、そのお相手のスーザン・ヘイズが検察側の証人として出廷した時に、ワイドショー的な盛り上がりはピークに達した。

「お二人の関係が始まったのはいつからですか?」
「1954年の初め頃からです」
「お二人は同じ部屋で過ごしたのですか?」
「はい」
「同じベッドで?」
「はい」

 スーザンは「奥さんとの離婚を約束してくれました」と証言した。また、他の証言からも夫婦関係が冷え込んでいたこと、サムには他にも浮気相手がいたことが明らかとなった。つまり、彼には動機があることが証明されてしまったのだ。
 このスキャンダラスな事実が、サムの無実を裏付ける弁護側の証拠をすべて吹き飛ばしてしまった。かくして、サム・シェパードは第二級殺人で有罪となり、終身刑を云い渡されたのである。

 サム・シャパードは本当に妻を殺したのだろうか?
 ありえないとまでは云えないが、その可能性は著しく低い。
 まず、浮気の件だが、たしかに夫婦仲は冷えていたのは事実だ。しかし、それはマリリンが死亡当時に妊娠中で、性交渉を拒んでいたからなのである。だから、サムは日々蓄積される精液の捌け口を他に求めたのだ。あくまでも「浮気」だったのであり「本気」で妻を殺そうとしたわけではないのだ。
 次に、殺害当日のサムのコンディションを考えてみよう。昼間にオペを終えて、やれやれと思っていたところを病院に呼び戻されて、クタクタになって帰宅して、食事を摂るなりガーガー寝てしまっているのだ。そんな日に殺害を実行するとは思えない。
 また、サムが脱ぎ捨てたものと思われるTシャツが後日に湖畔で発見されたが、警察の思惑に反して、血はまったく付着していなかった。
 更に、犯行現場の壁に飛んだ血痕から犯人は左利きだと推論されたが、サムは右利きである。
 そして、これが最も重要なのだが、現場にはマリリンの歯のかけらが落ちていた。頭を殴打された彼女の歯が折れるわけはない。おそらく彼女は犯人に噛みついたのだろう。その証拠に、現場にはマリリンのO型とは異なるA型の血痕が残されていた。サムもA型だが、彼には噛まれた跡がなかった。つまり、マリリンが噛みついたのはサム以外のA型の人物なのだ。

 以上の事実にもかかわらず有罪となったのは、スキャンダル報道と何らかの陰謀(地元の医師会か?)の為せる業である。母親のエセル・シェパードは息子の有罪判決後まもなく、
「もう生きていけません。ごめんなさい」
 との短い遺書を残して拳銃自殺している。



アリアーネ・テッベンヨハンスとぶちゅ〜

 サム・シェパードを無罪へと導いたのは、後にアルバート・デサルヴォを弁護したことでも知られるリー・ベイリーである。新進気鋭のこの29歳の弁護士は、名を売るためにサムの事件を買って出た。
「報酬はたっぷり頂きますが、ちゃんと払えるようにして差し上げますよ」
 裁判記録を読んだ彼は「勝算あり」と確信していたのだろう。弁説鮮やかに第一審の不正を指摘し、判事をして、
「もし新聞による裁判というものがあるとしたら、本件がまさにそれだった」
 と云わしめた。かくして連邦裁判所は有罪判決を棄却し、再審が始まる。1966年6月6日のことである。

 この頃のシェパードは裁判に全財産を蕩尽してスッテンテンだった。その彼を経済的に支えていたのがアリアーネ・テッベンヨハンスである。ドイツの実業家オスカル・リッチェルの娘で、姉はマグダ・ゲッベルス。そう。悪名高きナチスドイツの宣伝相パウル・ヨーゼフ・ゲッベルスの嫁である。どうしてそんな人物と知り合いになったのかというと、はるばるドイツから海を渡って獄中にラブレターが届いたのだそうだ。ハンサムな青年医師が四面楚歌になっている様を新聞で読んで同情し、乙女心が疼いちゃったのだ。サムの釈放と同時に2人は結婚。式でぶちゅ〜と接吻する写真が左にあるが、これにはさすがに支援者たちも引いたという。今やゲッペルスと義弟関係になってしまったサムは、またしても新聞ダネを提供することになるのだった。

 ベイリーにとっては楽なケースだったことだろう。第一審は憶測だらけで、反証不能な証人など誰一人としていなかったからだ。この頃には世間も十分に冷却し、事件を冷静に見る眼を持っていた。ほとんどのマスコミはサムに同情的である。そんな中で製作されたのが前述の『逃亡者』だ。風はサムに吹き始めた。そして1966年11月16日、サム・シェパードは遂に無罪を勝ち取るのである。



サム・シェパード、プロレスラーになる(右)

 映画ならばここでめでたしめでたしとなるわけだが、サムの物語はここでは終わらない。翌年12月に医師免許の復活が認められたが、精神的にガタガタになっていたサムはアルコールと睡眠薬の常用者になっていた。起こるべくして医療事故を起こして1年後にはまたしても廃業。アリアーネには三行半を突きつけられてしまう。踏んだり蹴ったりである。自伝はベストセラーになったものの、その印税は弁護費用に充てられた。ベイリーの「ちゃんと払えるようにして差し上げますよ」はそういう意味だったのだ。
 やけくそになったサムはプロレスラーに転向。如何にも唐突だが、もともとスポーツマンの彼には天職だったようだ。もう45歳だというのに初戦から勝利を飾った。まあ、八百長が横行する業界ですから、本当のところは判りませんが。やがてマネージャーの娘、コリーン・ストリックランド(20)と結婚すれども、その半年後にあっけなく死亡。1970年4月6日のことである。死因は肝不全だった。

 結局、マリリン・シェパードを誰が殺したのかは判らないままである。我こそは真犯人と名乗り出る者は何人もいたが、いずれも決定打を欠く。また、サムの息子が近年になってDNA鑑定を積極的に行っているが、何分にもサンプルが古いので、真犯人を特定するところにまでは至っていない。ただ、現場に残されていたA型の血液がサムのものではないことは、ほぼ間違いないようである。


参考文献

『現代殺人百科』コリン・ウィルソン著(青土社)
週刊マーダー・ケースブック35(ディアゴスティーニ)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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