チュン・イー・ミャウ
Chung Yi Miao (イギリス)



チュン・イー・ミャウ

 シカゴで法学の博士号を取得した28歳の中国人チュン・イー・ミャウは、やはり28歳の中国人ウェイ・シュンと結婚、イングランドの湖水地方(Lake District)に新婚旅行に出かけた。1928年6月のことである。
 6月18日に2人は湖畔のホテルに投宿した。この時、新妻は4000ポンド相当の宝石を携えていた他、高価な指輪を2つはめていた。

 翌日、2人は散歩に出かけたが、戻って来たのはチュンだけだった。
「奥様はどうされました?」
 従業員のこの問いに、チュンはこう答えた。
「あれはケスウィックにまで買い物に出かけた」
 ところが、新妻は既にこの世のものではなかった。その日の夕刻に川のほとりで中国人女性の絞殺死体が見つかると、小さな町は大騒ぎになった。知らせを聞いたチュンは叫んだ。
「なんてことだ! 妻が強盗に犯されて、殺されるなんて!」
 この一言が命取りとなった。この時点では、新妻の遺体に性的に暴行された痕跡があり、指輪が奪われていたことなど、まだ誰も知らなかったからだ。

 チュンが妻を殺害したことはまず間違いない。奪われた指輪はチュンのスーツケースから見つかったし(ホテルの従業員は彼女が外出する際に指輪をはめていたことを覚えていた)、彼女の首に巻きつけられていた紐はホテルの部屋のブラインドの紐と同じものだったのだ。

 問題はその動機である。どうしてチュンは新妻を殺さなければならなかったのか?
 純粋に財産目的だったとは考えにくい。新妻は資産家の娘だ。金づるとして生かしておいた方が得策だろう。
 この点、検察側はチュンが性的に満たされていなかったことを仄めかしている。また、新妻は性交が不能だったとの報道もある。チュンが「子供を産める女性と結婚したかった」と語っていたとの証言もある。殺しの動機としては不十分な気もしないではないが、こうしたことから何らかのノイローゼに陥っていたのではないだろうか?

 なお、チュンは同年12月6日に絞首刑に処された。動機については依然として謎のままである。

(2007年10月5日/岸田裁月) 


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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