ドクター・ロバート・クレメンツ
Dr. Robert George Clements (イギリス)


 

 容疑者が死んでしまったために真相が不明のまま終わってしまったケースがままある。ロバート・クレメンツの事件がその典型例だ。

 ロンドンの外科医師、ロバート・クレメンツの最初の結婚は1910年のことである。ところが、10年後の1920年に妻のイディスは急逝する。死因は「睡眠病(sleeping sickness)」と診断された。
 ほどなくメアリー・マクレアリーと再婚したが、彼女も1925年に急逝。このたびの死因は「心内膜炎」だった。
 1928年にはキャサリン・バークが3人目の妻となるが、彼女も1939年に「癌」で急逝してしまう。いずれの場合も死亡診断書を作成したのはクレメンツ自身だった。

 伴侶が3人も立て続けに死ねば、まともな神経の持ち主ならばお祓いなり何なりするもんだが、クレメンツはへっちゃらで、すぐさまエイミー・ヴィクトリアと再婚する。彼女もまた1947年5月27日にあの世行き。クレメンツ自身のお見立ては「脊髄性白血病」で、解剖医のジェイムス・ヒューストンもその旨に同意した。
 ところが、別の解剖医は「瞳孔の収縮」を見逃さなかった。それはモルヒネ中毒の徴候と一致する。かくして遺体は検視官に引き渡されて、長期に渡るモルヒネの投与が死因と判明するに至った。

 クレメンツは以前から陰で「青ひげ先生」と呼ばれていた。妻が死ぬたびに裕福になっていたからだ。逮捕は時間の問題だった。ところが、青ひげ先生は先手を打って、自らにもモルヒネを大量投与。このような遺書を残して、さっさと退場してしまう。

「関係各位殿。私はもうこれ以上、昨今の悪意ある中傷には耐えられません」

 一方、解剖医のジェイムス・ヒューストンも自らシアン化物を呷って絶命。自供とも取れる遺書を残している。

「私は早くから自らの過ちに気づいていました。しかし、そのことで利益を得たことはありません」

 棺の中の3人の妻も、掘り起こされて焼却された後だった。かくして真相は闇に葬られたのである。

(2008年6月4日/岸田裁月) 


参考文献

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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