パトリック・ダーシー
Patrick D'Arcy (アメリカ・アイルランド)



モハーの断崖

 1967年5月24日、アイルランド西部クレア州の海岸を歩いていた農夫が「モハーの断崖」下の岩の間に遺体が挟まっているのを発見した。それは若い女性で、黒いパンティしか身につけていない。頭部に酷い傷があり、肋骨が折れている。死後2日は経っているとの所見である。
 パンティがアメリカ製であることから、地元警察はFBIに問い合わせた。すると、立ちどころに身元が割れた。マリア・ドメネク、28歳。プエルトリコ移民の社会福祉士だ。いずれの場合も指紋が登録されているので、身元がすぐに判明したのである。
 1週間後の5月30日、ニューヨークのブロンクスで同じく社会福祉士をしているマリアの母親、ヴァージニア・ドメネクが失踪した。事件と関係があるのだろうか?
 とりあえず、アリア・ドメネクの足取りを洗ってみよう。

 マリアが欧州に旅立ったのは5月16日のことである。傷心旅行らしい。恋人の旅行代理人、パトリック・ダーシーに妻子がいることが判ったのだ。
 まず、パリに降り立った彼女は、母親に葉書を出している。後日、長い手紙を送るとの内容だ。しかし、その手紙は母親のアパートからは発見されていない。彼女がその手紙を出したのか否かは不明である。
 フランス警察の調べによれば、5月20日にマリアはホテルの部屋にアメリカ人の男を迎え入れ、一夜を共にしている。2人は翌朝にチェックアウトし、ロンドンに渡った。そこでマリアは5千ドルのトラベラーズ・チェックを現金に換えている。
「M・ヤング」の偽名でホテルを予約していた彼女は、どういうわけか一泊もすることなく、男と共にダブリンへと渡った。そこで男が「A・ヤング」の名前で車を借り、2人は西海岸へと向かう。「モハーの断崖」に着いたのは5月22日の午前4時頃と思われる。この時間に断崖の上でヘッドライトを見たとの目撃証言があるからだ。
 男はマリアを鈍器で殴って殺害し、衣服を剥ぎ取るが、パンティだけは残した。そして、断崖から投げ捨てた。衣服はほど近い場所に捨てられていた。

 さて、ここからは「A・ヤング」の足取りである。
 午前8時にシャノン空港のホテルにチェックインした彼は、しかし、4時間後にはチェックアウトし、午後6時頃にダブリンで車を返却した。その後、パリに渡り、数日後にニューヨークに舞い戻る。マリアの母親が失踪したのはその直後である。
 では「A・ヤング」とは誰なのか? 数々の目撃証言からパトリック・ダーシーであることはほぼ間違いない。両親はアイルランド移民なので土地勘もある。また、この頃には警察は、ダーシーがマリアの母親とも深い仲にあったことを突き止めていた。

 尋問されたダーシーは知らぬ存ぜぬで押し通し、最近は海外に出掛けていないと釈明したが、彼のパスポートはそれが嘘であることを示していた。また、その筆跡は「A・ヤング」と一致する。アイルランド警察から身柄の引き渡しが要求されると、ダーシーはニューヨークから姿を消した。そして、マイアミのホテルで死体となって発見された。致死量の睡眠薬をウイスキーで飲み下したのである。

 彼が手を下したのは間違いないとして、動機はいったい何だったのか? 金か? たしかにダーシーの事業は思わしくなかったが、たかが5千ドルのために危ない橋を渡るだろうか?
 また、マリアの母親は何処に行ったのだろうか? ダーシーに殺されたとして、その動機は? マリアの手紙に彼の名前が書かれていたのだろうのか?
 謎は深まるばかりである。

 ダーシーはニューヨークの牧師に宛てた遺書を残している。この牧師によれば、ダーシーは「あの哀れな女に起きたことより、もっとすごいことをやっている」などと語っていたという。この点、コリン・ウィルソンは麻薬との関連性を指摘している。
「マイアミは麻薬の密輸入の中心地である。この土地に彼がしばしば来ていたことは、これで説明がつくかも知れない」
 マリアも麻薬絡みで殺されたのだろうか? この謎を解く鍵は遺書にあると思われるが、牧師はその公表を頑なに拒んでいる。

 いずれにしても、ダーシーがマリアのパンティまで剥ぎ取っていれば、身元は割れず、完全犯罪が成し遂げられたことだろう。つまり、彼のちょっとした良心が仇になったのだ。


(2008年12月13日/岸田裁月) 


参考文献

『現代殺人百科』コリン・ウィルソン著(青土社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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