ウィリアム・デュラント
William Durant (アメリカ)



遺体を鐘楼へと運ぶデュラントの想像図

「鐘楼の悪魔」と呼ばれて全米は疎か、海を渡って欧州にまで悪名を轟かせた極めてインモラルな事件である。なにしろ殺人の舞台となったのがバプティスト教会だったのだ。

 1895年4月13日、サンフランシスコのエマニュエル・バプティスト教会でミニー・ウィリアムス(20)の惨殺死体が発見された。全裸で、絞殺された上にナイフで滅多刺しにされている。教会内を隈なく捜索した警察は、鐘楼でかなり腐敗が進行したブランチ・ラモント(21)の遺体を発見した。殺害状況はほぼ同じである。同一犯の犯行と見て間違いない。
 やがて医学生で日曜学校の主幹を務めるウィリアム・デュラントが前日、ミニー・ウィリアムズと共に教会に入って行くのを見たとのタレ込みがあった。直ちに逮捕されたデュラントは有罪となり、2年後の1898年1月に処刑された。

 疑問が残る結末である。デュラントと犯行を結びつけるのは件のタレ込みだけなのだ。これが間違いならば冤罪の可能性がある。当時の人々もそう感じたようだ。デュラントの処刑後、犯行を「自白」する者が続出した。また、真犯人はバプティスト教会の牧師で、デュラントはその罪を被って処刑されたのだと真しやかに囁かれた。しかし、真相は不明のままである。

 なお、デュラントの遺体はいずれの火葬場からも拒否されて、ようやくパサディナの火葬場が引き受けてくれるまで6日もかかったという。それほどインモラルな事件だったのだ。


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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