夢が解決に導いた事件といえば赤い納屋事件が思い出されるが、本件もまたその一つである。
アーネスト・ダイアーには病気があった。それは「競馬バカ」という病気である。ウィリアム・パーマーはこの病気が故に親族や債権者を片っ端から殺したが、27歳のダイアーもまた犯罪者としての道を歩み始めていた。
1921年4月、彼の住まいが全焼した。購入価格は3千ポンドだったにもかかわらず、1万2千ポンドもの火災保険がかけられていたのだから如何にも怪しい。保険金目的の放火だったのではなかったか? 疑惑を抱いた保険会社は支払いを拒絶。家は焼けるわ保険金は入らないわでダイヤーは切羽詰まっていた。
ダイヤーの競馬道楽にはスポンサーがいた。エリック・トゥームという25歳の小金持ちである。2人は第一次大戦中に陸軍で知り合い、昨年から共同で競馬事業を始めた。主にトゥームの出資でサレー州ケンレーの厩舎を買い取ったのだ。ところが、馬はどいつもこいつもノロマばかり。事業の見通しはまったくつかず、ダイヤーは資金を捻出するためにトゥームの小切手を偽造するようになっていた。
そんな折にダイヤーの家が焼け落ち、ほどなくしてトゥームの姿が見えなくなった。翌年の8月になっても行方が知れない。心配した父親が銀行に問い合わせると、支店長曰く、
「ご心配なさらなくても結構ですよ。先月にもご子息から手紙を受け取りましたから」
7月22日付のその手紙を一瞥するなり父親が叫んだ。
「何を云ってるんだ!。これは息子の筆跡じゃない!」
トゥームの預金残高は1921年4月の時点で2570ポンド。ところが、下旬にパリの銀行に1350ポンドも送金されている。宛先は「アーネスト・ダイアー」。2ケ月後の7月に銀行に届いた書類でトゥームの代理人に指名された人物である。そして、1922年8月現在、預金はほとんど引き出されていた。
「アーネスト・ダイヤー」がトゥームの失踪に関与していることはまず間違いないだろう。しかし、父親には「アーネスト・ダイヤー」が誰なのか、今どこにいるのかの見当もつかなかった。
ダイアーの行方が判らぬままに3ケ月が過ぎた頃、ヨークシャー州スカーバラの地元紙にこのような広告が掲載された。
「当方、極めて有望な事業を計画中。有能な御仁の協力を求む。但し、かなりの資産家に限る」
胡散臭いものを感じた地元の刑事は、広告主たる「ジェイムズ・フィッツシモンズ」なる人物に会ってみることにした。11月16日、刑事の訪問を受けた「フィッツシモンズ」は、動揺しながらもホテルの自室へと招き入れた。その刹那、彼が上着の内ポケットに手を入れるのを刑事は見逃さなかった。2人は揉み合いとなり、床に倒れた。
ズドン。
銃が暴発した。案の定、彼は内ポケットに銃を忍ばせていたのだ。弾丸は彼の心臓を貫いていた。ほとんど即死だった。
遺留品から「ジェイムズ・フィッツシモンズ」の本名が「アーネスト・ダイアー」であることが発覚した。エリック・トゥームの旅券と未使用小切手も発見されたが、肝心の本人は何処にいるのか判らない。死人に口なし。かくして事件は暗礁に乗り上げた。
ダイアーの死から10ケ月が過ぎた頃、トゥームの父親がロンドン警視庁に訪れた。なんでも、妻が、つまりトゥームの母親が繰り返し同じ夢を見るというのだ。それは愛しい息子が井戸の底から助けを求める夢だった。
「おそらくこれは正夢です。息子が妻に居場所を教えているんです」
フランシス・カーリン警視は奇特にもこれを信じて行動に出た。ダイアーが経営していた厩舎が怪しい。古井戸が5つもある。1つ、2つと掘り進み、3つ目で底から足が出た。それはまさにトゥームの亡骸だった。
トゥームは至近距離からショットガンで後頭部を撃たれていた。おそらく1921年4月下旬のパリへの送金の時点で殺されていたのだろう。
この事件には2つの偶然が介在している。まず、スカーバラの刑事が広告を疑わなかったならば、ダイアーの行方は知れなかった。それどころか、第2、第3の犠牲者が出ていた可能性がある。そして、母親が見た夢をカーリン警視が信じなかったならば、トゥームの遺体は行方知れずのままだったのだ。まったく世の中とは不思議なものだ。
(2007年5月31日/岸田裁月)
|