バーバラ・グレアム
Barbara Graham (アメリカ)



我が子を抱く死刑直前のバーバラ

 バーバラ・グレアムは仲間と共に強盗に押し入り、未亡人メイベル・モナハンを殺害した容疑で有罪となった。1955年6月3日にサン・クェンティンのガス室で死刑執行。しかし、彼女が直接手を下した確証はない。死刑は重過ぎたのではないかというのが今日の多数意見である。

 1923年6月26日、カリフォルニア州オークランドに生まれた「稀代の毒婦」バーバラ・グレアム(旧姓ウッド)の生涯は不良娘の典型例だ。まだ2歳の時に十代の母親が少年院に入れられて、彼女は隣人に育てられた。次第に手に追えなくなり、わずか9歳で母親と同じ少年院に入れられている。18歳の時に初めて結婚。3人の子宝に恵まれるが、平穏な生活は長くは続かなかった。離婚と結婚を繰り返し、4人目の夫ハリー・グレアムと出会った時には、彼女はサンフランシスコの売春宿で娼婦をしていた。
 このハリーという男が彼女を更なる堕落へと導く。酒と麻薬とセックス三昧の日々。気がついたら彼女はジャック・サントスを頭とする強盗団の一味に加わっていた。

 それは1953年3月9日のことだった。カリフォルニア州バーバンクに住む63歳の未亡人、メイベル・モナハンは死神の訪問を受ける。門口に立っていたのは、バーバラ・グレアムだった。
「すみません、夜分遅くに。車がエンストしてしまったもので。申し訳ありませんが、電話を貸していただけないでしょうか?」
 モナハン夫人は快諾する。と、男たちが割って押し入り、夫人を縛り上げて目当ての宝石を探し回った。その後に何があったのか、実際のところは判らない。確かなことは3日後に頭を鈍器で叩き割られた夫人の遺体が発見されたことと、宝石は一つも盗まれていなかったことのみである。つまり一味は結局、宝石を奪えず、ただ老夫人の命を奪っただけで逐電したのだ。凶悪な反面、間抜けで杜撰な犯行である。

 最初に口を割ったのは一味の一人、バクスター・ショーターだった。彼は免責を条件に仲間を売った。彼によれば、事のあらましは以下の通り。
「まずバーバラが玄関のベルを鳴らした。夫人がドアを開けると、エメット・パーキンスジョン・トゥルーの2人が一気に押し入ったんだ。俺は後から中に入ったんだが、びっくりしちまったぜ。バーバラが夫人の頭を拳銃のグリップで殴りつけていたんだ。こいつは約束と違う。夫人に手を出すなんて俺は聞いちゃいなかったんだ。だけど、誰もバーバラを止めなかった。むしろ焚きつけてた。もっとやれってね」
 この証言によりショーターは釈放され、サントスとパーキンス、そしてバーバラの3人はモーテルに潜伏しているところを逮捕された。

 ショーターは釈放と同時にパーキンスにバラされたが、検察はもう一人の証人を押さえていた。同じく共犯者のジョン・トゥルーである。そして彼の証言により、バーバラは殺人容疑で起訴されるに至った。
 これに対してバーバラは現場にいたこと自体を否定した。ところが、彼女が主張したアリバイは、なんと検察側が仕組んだものだった。囚人に化けた捜査官がバーバラに近づき「アリバイ工作に協力してやろう」と持ち掛けたのだ。
 きったねえなあ。
 彼女は愚かにもこの提案に飛びついて、成功報酬として2万5千ドルを支払うことを約束する。以上の会話はすべて録音されており、法廷で流されたのだから堪らない。
「アリバイ工作をしなければならないということは、あなたの犯行であることのなによりの証拠ではありませんか?」
 かくして陪審員は丸め込まれて有罪を評決。バーバラは死刑を宣告されたのである。そして、共犯者のサントスとパーキンスと共に、1955年6月3日にガス室で処刑されたのは前述の通りである。

 バーバラにとって極めてアンフェアな裁判だった。物証は一つもない。あるのはトゥルーの証言のみ。にも拘らず死刑とは酷過ぎる。
 まさに「現代の魔女裁判」である。「あの淫売を殺せ」という結論ありきの裁判だったのだ。

 なお、バーバラの処刑から3年後の1958年、彼女の獄中での手記に基づく映画『私は死にたくない(I Want to Live !)』が公開されている。監督は名匠ロバート・ワイズ。バーバラに扮したスーザン・ヘイワードはアカデミー主演賞を受賞している。このような作品が製作されるということは、当時からその裁判の正当性が疑問視されていたことの何よりの証拠である。

(2008年7月22日/岸田裁月) 


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『LADY KILLERS』JOYCE ROBINS(CHANCELLOR PRESS)


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