アンドリュー・キーホー
Andrew Philip Kehoe
a.k.a. The Bath School Disaster (アメリカ)



アンドリュー・キーホーとその妻

 アンドリュー・キーホーは1872年2月1日、ミシガン州テカムセで13人もの子沢山の家庭に生まれた。幼い頃に母親を失い、父親はやがて後妻を迎える。新しい母親とは折り合いが悪かったようだ。
 キーホーが14歳の時、家のストーブが爆発した。継母が灯油を補給しようとしたその時に引火したのだ。灯油を頭から被った彼女は火に包まれた。キーホーはしばらくの間、消火もせずに継母が燃える様を眺めていたという。しかし、彼が継母の死について咎められることはなかった。

 やがてミシガン州立大学を卒業したキーホーは、エレン・プライス(通称ネリー)という裕福な家庭の娘と結婚し、1919年にバス・タウンシップのはずれに農場を購入して移り住んだ。
 キーホーは近隣の住民たちからは、教養はあるが、我が強い人物として知られていた。早いうちからトラクターを導入し、そのメンテナンスが出来ることを自慢していたが、農作業の経験がまるでないために、かえって効率が悪い結果となった。しかし、彼は決して己の非を認めようとはしなかった。

 農作業よりも事務職に向いた人物だったのだろう。やがて彼はその手腕が認められて、地元教育委員会の会計係に選出される。1924年のことである。在任中、彼は減税のために奔走した。ところが、教育委員会は新たな学校(従来のような教室一つのみからなる学校ではなく、学年別の複数の教室からなる学校)の設立を決定し、更なる財産税を住民に課した。キーホーも300ドルも上乗せされた。冗談ぢゃない。ただでさえ妻が結核で大変だってえのに、これ以上ふんだくられてなるものか。キーホーはエモリー・ヒューイック校長の方針に断固として反対したが、その主張は通らなかった。
 農作業はヘタ。嵩む借金。女房は病気。おまけに増税。首が回らなくなったキーホーは、遂に抵当権を実行されて、農場を差し押さえられるに至ったのである。おそらく、この時に彼は犯行を決意したのだろう。我が身を犠牲にしてでもエモリー・ヒューイックに復讐してやろうと。



爆破されたバス統合学校


農場の柵に残されていたメッセージ


学校の床下から発見された大量の爆薬

 結局のところ、キーホーは新たに設立された「統合学校」を爆破して、43人もの尊い命を奪ったわけだが、その計画は1年近くも前から着々と進められていた。1926年初夏にはパイロトール(無煙火薬)を1トンも購入、11月にはダイナマイトを2箱購入している。共に農場経営者の間では開拓用に普通に使用されていたものであり、このことをもって彼が疑われることはなかった。但し、ダイナマイトは破壊力が図抜けているので、いちどきに買うと疑われる。少しずつ買い足していたようである。
 また、教育委員会に携わっていたキーホーは学校の出入りも自由だった。電気に詳しいということで、設備の補修を頼まれたりもしていた。こうした機会に少しずつ爆薬を仕込んでいたのである。

 妻のネリーが退院したのは1927年5月16日のこと。おそらくその翌日に、キーホーは彼女の頭を鈍器で殴って殺害した。後日、彼女の遺体は鶏小屋脇の手押し車の中で発見された。その周りには故人が生前に愛した銀器やら宝石やらが積み上げられていた。キーホーなりの供養だったのだろう。
 最愛の妻を殺したキーホーは、自宅をも葬り去る準備に取りかかった。農場に導線を張り巡らせて、全ての建物に自家製の爆弾を仕掛けたのである。そして、すべての家畜を囲いに縛りつけた。もちろん、道連れにするためである。
 最後に仕上げとして、農場の柵にメッセージが書かれた板を括りつけた。

「犯罪者は作られるのだ。生まれながらではない)
(Criminals are made, not born.)


 1927年5月18日午前8時45分、最初に爆発したのはキーホーの農場だった。その1時間後の9時45分に学校の北側部分が爆発した。消防団を自宅に引きつけ、子供たちの救助を遅らせようとするキーホーの底意地の悪さが窺える。
 爆発の威力はそれは凄まじいものだった。机や教科書と共に子供たちも吹き飛ばされた。屋根は崩れ落ち、多くの子供たちが下敷きになった。この爆発により37人の生徒2人の教師が帰らぬ人となった。
 爆発から30分後、消火やら救助やらで大わらわの現場にキーホーはニタニタと笑いながら車で乗りつけた。助手席にはたんまりとダイナマイトが積まれている。そして、ヒューイック校長を見つけると、大声でこっちに来るよう呼び寄せた。なんだなんだ? 校長が近づくや否や、キーホーの車が爆発した。この爆発によりキーホー自身はもちろん、ヒューイック校長の他にも2人の住民1人の生徒が巻き添えとなって死亡した。キーホーは最後の爆発の殺傷能力を高めるために、後部座席に釘やら鉄屑やらを搭載していたのである。恐ろしいことである。
 結局、本件の死者は最終的にキーホーも含めて45人に及んだ。

 なお、現場を捜索したところ、校舎の南側にも爆薬が仕掛けられていることが判明した。時限発火装置は午前9時45分にセットされている。幸いにして不発に終わったわけだが、もしこれも爆発していたら倍の死者を出していたことだろう。身の毛がよだつ思いがする。

(2009年1月22日/岸田裁月) 


参考文献

『THE ENCYCLOPEDIA OF MASS MURDER』BRIAN LANE & WILFRED GREGG(HEADLINE)


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