ピーター・マニュエル
Peter Manuel (イギリス)



ピーター・マニュエル

 ピーター・マニュエルは絵に描いたようなワルである。ニューヨークの貧民窟で生まれ育ったことに原因がある。一家はやがて故郷のスコットランドに帰還した後、グラスゴーに移り住むが、三つ子の魂百までも。早々に商店を叩いてしょっぴかれる。わずか11歳の時のことである。その後の人生はシャバとムショを行ったり来たりの繰り返し。窃盗、強盗、暴行、強姦、なんでもござれのならず者に成長する。

 そんなマニュエルの殺人デビューは1956年1月2日のことである。28歳になっていた彼は、グラスゴーにほど近いイースト・キルブライドの森の中で、17歳の少女アン・ナイランズを押し倒して撲殺したのだ。2日後の発見された遺体には強姦の痕跡はなかったが、衣類に精液が飛び散っていたことから、性的な目的であったことは明らかだ。
 やがて警察はマニュエルに目星をつけた。その頬にはまだ生々しい引っ掻き傷があったからだ。しかし、彼の父親がアリバイを証言したために、検挙にまでは至らなかった。この時に逮捕できていれば、残りの7人は死なずに済んだかも知れない。そう思うと、父親の嘘は罪深い。

 同年3月にマニュエルは強盗予備の容疑で逮捕されるが、その裁判を待っている間の9月17日、性懲りもなく強盗を働き、3人も殺めている。このたび犠牲になったのは45歳のマリオン・ワットと、16歳になる娘のヴィヴィアン、そして妹のマーガレット・ブラウンである。彼女たちはいずれも至近距離から撃たれていた。
 マニュエルも当然の如く尋問され、家宅捜索も行われたが、その犯行を裏づける証拠は何一つ見つからなかった。警察はやがてもう一人の男に目星をつける。マリオンの夫、ウィリアム・ワットである。事件当日、泊まりで釣りに出掛けていた彼には、夜中の1時から明け方の8時までの間のアリバイがなかったのだ。
 ワットの嫌疑はまもなく晴れるが、その前にマニュエルは、図々しくもワットの弁護人にこのような手紙を書き送っている。
「私は真犯人を知っている。その名前と引き換えに、私を弁護して欲しい」

 18ケ月後に釈放されたマニュエルはすぐさま犯行を重ねる。1957年12月28日には17歳の少女イザベル・クックを殺害。明けて1958年1月5日にはピーター・スマート宅に押し入り、妻のドリスと11歳の息子マイケルと共に殺害…。
 いやはや、凄まじい頻度である。あたかも奪われた18ケ月を取り戻すかの如き勢いだ。
 1週間後の1月14日に逮捕されたマニュエルは、当初はだんまりを決め込んでいたが、父親が贓物収受の容疑でしょっぴかれると、庇うために饒舌に自供し始めた。そして、イザベル・クックを埋めた場所に案内して一言。
「ここだよ、まさにここ。俺の足の下に埋まっている」
 まさにその場所からイザベル・クックの遺体は発掘された。

 法廷では一転して無罪を主張したマニュエルは、弁護人の生っちょろい弁舌に腹を立てて解雇、自らが弁護人を兼ねるという荒技に出たが、何分にも法律はド素人のコンコンチキ。責任能力を争うも、判事をして、
「キチガイでなくとも、ここまで残忍になれるものなのだなあ」
 などと感心させた挙げ句、アン・ナイランズを除く7件で有罪となり、死刑を宣告されたのだった。1958年7月11日に処刑されたこの男の人生は、いったい何だったのだろうか?

(2008年9月10日/岸田裁月) 


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著
『SERIAL KILLERS』JOYCE ROBINS & PETER ARNOLD(CHANCELLOR PRESS)


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