ステイニー・モリソン
Steinie Morrison (イギリス)



レオン・ベロンの遺体


ステイニー・モリソン

 1911年1月1日、ロンドン郊外クラパム・コモンの茂みの中でレオン・ベロン(48)の遺体が発見された。頭を鈍器で砕かれ、額には奇妙な「S」の切り傷…。
 犯人からのメッセージだろうか?
 ベロンがイーストエンドでいくつもの木賃宿を経営するロシア系ユダヤ人であることから、近頃ロンドンで暴れているロシア系アナーキストの関与が疑われた。というのも、つい2週間前の12月16日、ハウンズディッチでの銃撃戦で3人の巡査が死亡、ロンドン警視庁はその弔い合戦のためのアジト探しに血眼になっていたのだ。悪徳家主として知られる守銭奴のベロンが警察にタレ込み、その報復で殺された可能性がある。つまり「S」とは「スパイ」の頭文字ではないかと推察されるのだ。

 ベロンが行きつけの「ワルシャワ・コーシャー・レストラン」の主人によれば、前日の12月31日の晩にベロンは1人の男と夕食を共にしていた。男の名はステイニー・モリソン。やはりロシア系のユダヤ人で、5回の服役歴があるコソ泥である。2人は共に店を出て、馬車でクラパム・コモンへと向った。この男が犯行に関わっていることはまず間違いないだろう。
 モリソンはしばらく行方不明だったが、7日後にフィールドゲート・ストリートのレストランで朝食を摂っている所を逮捕された。

 裁判はモリソンに不利だった。彼が1月1日の朝にホワイトチャペルの手荷物預り所に預けたバッグから拳銃1丁と弾丸45発が発見されていたのだ。また、彼にアリバイを提供したジェーン・ブロドスキの証言もデタラメであることが発覚。一方、弁護人は検察側の証人であるベロンの弟ソロモンに殺害の動機があることを仄めかしたが、裁判官に諌められて、かえって心証を悪くしてしまった。

 しかし、すべてが状況証拠だった。モリソンがベロンを犯行現場へと導いたことは確かだが、彼が殺したとまでは断定できない。アナーキストの一味に引き渡しただけかも知れないのだ。
 そのことを十分に理解していた裁判官は、陪審員に対する説示でそれとなく無罪の評決を促した。にもかかわらず評決は有罪。死刑判決を云い渡す際、裁判官はいつもの決まり文句で結んだ。
「被告人の魂に神の慈悲がありますように」
 これに対してモリソンはこのように叫んだ。
「私にはそんな慈悲は必要ない! 私は神を信じない!」
 彼はアナーキストではなかったが、社会主義者だったのだ。

 モリソンは後に時の内務大臣、ウィンストン・チャーチルの計らいにより終身刑に減刑されたが、10年後の1921年1月24日、獄中で餓死した。無実を主張し続けた彼は、再審を要求してハンガー・ストライキを断行していたのだ。

(2007年1月22日/岸田裁月) 


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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