キャンディス・モスレア
メルヴィン・パワーズ

Candace "Candy" Mossler
Melvin Powers (アメリカ)



キャンディスとメルヴィン


ジャック・モスレア

 フロリダ州の高級リゾート地、キー・ビスケインでの出来事である。1964年6月30日午前1時30分、付近住民は犬のけたたましい鳴き声で目が覚めた。またあの犬だ。ジャック・モスレアが可愛がるボクサー犬のロッキーは以前からたびたび迷惑がられていた。忌々しい。相手が億万長者でなければ怒鳴り込んでやるものを。
 ところが、聞こえて来たのはロッキーの鳴き声だけではなかった。モスレア宅の屋内でドタンバタンとやっている。おやおや、真夜中にいったい何の騒ぎだい? お隣さんが窓から様子を窺うと、やがて門から背の高い男が飛び出して、白いシボレーで逃げるように走り去る。こいつはただごとじゃないぞ! 直ちに呼ばれた警察は、居間に転がるジャック・モスレアの無惨な遺体を発見した。
 バスローブ姿の彼は39ケ所も刺された上、鈍器で頭を叩き割られていた。傍らにはガラスの置物が転がっている。凶器はおそらくこれだろう。
 財布からは500ドルほどが抜き取られていることから物盗りのようにも思える。しかし、単なる物盗りが39ケ所も刺すだろうか? むしろ怨恨の線が濃厚である。
 また、モスレアの右手には黒く染められた髪の毛が握られていた。犯人のものである可能性が高い。

 金融王として知られるジャック・モスレアがここキー・ビスケインに単身で移り住んだのは9ケ月前のことである。妻と子供たちは遠く離れたテキサス州ヒューストンの、28もの部屋がある豪勢なマンションで暮らしている。
 16年前に結婚した妻のキャンディス(通称キャンディ)は、ブロンドの元モデルで、ジャックより24歳も若かった。ジャックには先妻との間に4人の子がおり、キャンディにも2人の連れ子がいた。その後、更に4人の子を養子に迎えたので、締めて10人の子沢山である。
 本来ならば10人の子に囲まれて円満に暮らしている筈なのに、どうして別居しなければならなかったのか?
 身辺を洗った警察は、キャンディスの甥っ子、メルヴィン・パワーズが転がり込んだ1961年頃から夫婦仲がぎくしゃくし始めたことを突き止めた。

 メルヴィンはキャンディの姉の息子で当時20歳。身長195cmの逞しいこの若者には詐欺の前科があった。保釈中にキャンディの計らいで夫の会社に就職し、同居することになったのである。
 当初は更正目的の支援だったわけだが、夫が欧州旅行に出掛けている隙に2人は一線を越えてしまう。つまりデキてしまった。近親相姦の関係に陥ってしまったのである。仲睦まじい2人の姿がしばしば目撃された。共に旅行に出掛けた折りには、メルヴィンは叔母を「妻」と紹介する始末。飲み友達には「如何にしてクンニリングスで金脈を手に入れたか」を自慢していたというから更正もへったくれもありゃしない。叔母共々畜生道に堕ちてしまった。

 ジャックが旅から戻った頃には、2人の関係は公然の秘密となっていた。愕然とした彼は弁護士に相談すれども、離婚は避けるべきとの提言を受ける。
「経営者にとってスキャンダルは禁物です。増してや妻の近親相姦など格好の新聞ネタになる。ここは穏便に済ませた方がよろしいですぞ」
 かくしてメルヴィンは解雇され、マンションから叩き出されたのである。1963年6月20日のことである。この時、メルヴィンはこのように罵ったと伝えられている。
「いつか必ずこの家の主人として戻って来るからな!」
 その後、世間の笑い者になることに耐えられなかったジャックはヒューストンから逃げ出してキー・ビスケインに移り住んだというわけなのだ。ここまで判れば誰が下手人かは想像がつく。メルヴィン・パワーズである。



無罪放免を喜ぶキャンディス

 メルヴィンの事件当日の足取りは「私が彼を殺りました」と自供しているも同然だった。数日前からマイアミに滞在していた彼は、当日の第一便でヒューストンに舞い戻っているのだ。マイアミ空港のパーキングにはキャンディから借りた「白いシボレー」が駐車されたままだった。現場で目撃されたのと同じ型の車である。パーキング・チケットが切られたのは午前5時19分。犯行の4時間後だ。車の中には僅かながらも血痕が残されていた。
 また、キー・ビスケインの犯行現場にはメルヴィンの掌紋が残されていた。彼がこの家を訪れたことは一度もない筈だ。かくしてメルヴィン・パワーズは逮捕された。

 では、メルヴィンの仕業だとして、キャンディは関わっていたのか?
 彼女の足取りもまたメルヴィン同様に奇妙なのだ。事件の数週間前にキャンディは4人の子供を連れてキー・ビスケインまで遊びに来ていた。つまり、事件当時は夫婦は同居していたのだ。しかし、犯行時には子供共々不在だった。彼女は偏頭痛に悩まされており、マイアミのジャクソン記念病院まで深夜の治療を受けに出掛けていたのだ。家を出たのは午前1時。そんな時間に4人の子供を連れて出掛けるだろうか? 極めて不自然である。犯行を事前に知っていたと思われても仕方ない。
 また、彼女は病院で電話を3回受けている。ナース・ステーションに掛かってきたそれはいずれも同じ男からだった。いったい誰からの電話なのか? 犯行の終了を伝えるメルヴィンではなかったか?
 かくしてキャンディス・モスレアも共犯者として逮捕された。1965年7月20日のことである。

 両名の弁護はテキサス州随一の弁護士、パーシー・フォアマンが担当した。費用は20万ドルとべらぼうである。キャンディは宝石や毛皮を売却することで補ったが、いずれも故人からのプレゼントだ。皮肉なことに、故人は自分の金で容疑者の弁護費用を賄ったのである。

 フォアマンはその評判通りに極めて狡猾だった。彼が取った戦術とは、故人の名誉を貶めるというものだった。曰く「ジャック・モスレアは男色家で、痴情のもつれから殺されたのだ。だから警察が探すべきなのは、彼の恋人たる、髪を黒く染めた青年である」
「髪を黒く染めた」とは、故人の右手に握られていた髪の毛を指している。

 一方、検察は「髪の毛」を説明出来なかったばかりか(メルヴィンは髪を染めていない)、証人喚問でポカをやった。メルヴィンに殺しを依頼されたという4人の証人を引っ張り出して来たまではいいのだが、そのうちの1人が明らかに大嘘つきだったのだ。陪審員の心証はこのことで大きく損なわれた。

 風向きが変わった。機を見るに敏なフォアマンは4時間58分にも及ぶ最終弁論で陪審員に訴えかけた。
「被告たちは確かに不道徳な関係にありました。しかし、そのことで判断しないで下さい。それとこれとは別なのです。疑わしきは罰せずの原則をどうか忘れないで下さい」
 これを受けて、陪審員は延べ16時間33分にも及ぶ審議の結果、両名に無罪を云い渡した。大逆転である。キャンディとメルヴィンは法廷から一歩出るや否や、人目をはばからずに抱擁してキスをした。或る記者が訊ねた。
「結婚はされるんですか?」
 キャンディは答えた。
「もちろん、しません。いえ、出来ません」
 その通りに、まもなく2人は別れた。

 その後、土地開発業に転身したメルヴィンの人生は、高額納税者になったかと思えば、翌年には破産していたりと、山あり谷ありの人生だったらしい。
 一方、3千3百万ドルもの遺産を相続したキャンディは、悠々自適の暮らしを送り、1976年10月に他界。その豪邸の備品がオークションに出されると、多くの者が一目見ようと群がったと伝えられている。
 結局、真犯人は誰なのか、ジャック・モスレアは本当に男色家だったのかは不明のままに今日に至る。そして、誰もが思う。やはり疑わしいのはあの2人だと。

(2008年10月29日/岸田裁月) 


参考文献

『LADY KILLERS』JOYCE ROBINS(CHANCELLOR PRESS)


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