マーク・プリアム
Mark Pulliam (アメリカ)


 1942年11月2日、ジョージア州チャッツワースでの出来事である。林業を営むマーク・プリアムの自宅から火の手が上がった。その勢いたるや凄まじく、駆けつけた隣人たちは為すすべがない。家屋は瞬くうちに焼け落ちた。
 焼け跡からは6つの遺体が見つかった。夫人のウィニー・プリアム5人の子供だ。台所に1人、居間に2人、応接間に1人、そして寝室のベッドの上で夫人と生まれたばかりの末っ子が黒焦げになっていた。主のマーク・プリアムは仕事に出ていて留守だった。また、上の3人の子供は既に独立していたために難を逃れた。

 当初は事故扱いだった。ところが、まもなく保安官のもとに葬儀屋から連絡が入る。
「旦那、こりゃ事故じゃありませんよ。奥さんの腹に刺し傷があります」
 検視に回された子供たちからもクロロフォルムが検出された。失火や放火などではない。紛れもなく殺人事件である。これに対してマーク・プリアムは異議を申し立てた。
「うちの家族は他人様から怨みを買うようなことはござんせん。殺人だなんて滅相もない。事故に相違ありますまい」
 戯けたことを宣うなかれ。容疑者はお前さんなんだぜ。
 放火捜査の専門チームは床板に可燃性のコールタールが撒かれていたことを突き止めた。また、プリアム夫妻はこのところ喧嘩が絶えないことも明らかになった。更に、プリアムが妻と5人の子供に2800ドルの生命保険をかけていたことも発覚、独立している3人の子供には保険はかけられていなかった。
 判りやすいなあ!
 プリアムが火災の直前にクロロフォルムを購入していたことで証拠はほぼ固まった。彼は「獰猛なラバを静めるために必要だった」と釈明したが、当のラバに蹄鉄を履かせた鍛冶屋によれば、
「おとなしかったっすよ。クロロフォルムなんか使いませんでした」

 かくしてマーク・プリアムは妻と5人の子供の殺害容疑で起訴されて、1943年2月13日に終身刑を云い渡された。しかし、それにしても我が子を5人も道連れにするとは、随分と思いきったことをしたものである。

(2008年7月13日/岸田裁月) 


参考文献

『THE ENCYCLOPEDIA OF MASS MURDER』BRIAN LANE & WILFRED GREGG(HEADLINE)


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