パジャマ・ガール事件
The Pyjama Girl Case (オーストラリア)



リンダ・アゴスティーニ


逮捕されたアントニオ・アゴスティーニ

 1934年9月1日、オーストラリア南東部オルベリー付近の排水溝で、パジャマ姿の若い女性の遺体が発見された。半ば焼け焦げた遺体は、頭をひどく殴られた上に、後頭部に1発の銃弾を撃ち込まれていた。

 身元の確認は困難を極めた。身体的特徴は耳たぶがないことのみ。顔面は焼け爛れており、見るも無惨な状態だった。
 マスコミにより「パジャマ・ガール」と名付けられた彼女の遺体は、ホルマリン漬けにされて一般に公開された。被害者の人権を無視した扱いには疑問を感じるが、それほどに手掛かりがないということなのだろう。しかし、詰めかけたのは興味本位の野次馬ばかりだった。

 遺体発見から10ヶ月が過ぎようとしていた頃、イタリア料理店のクローク係アントニオ・アゴスティーニの妻、リンダ・アゴスティーニではないかとの情報が寄せられた。彼女も耳たぶがなかったのだ。尋問を受けたアゴスティーニはこのように答えた。
「妻とは別居中で、今、何処で何をしているのかさえ判りません」
 決め手がないままに月日が流れ、やがて第二次大戦が始まると「パジャマ・ガール」への世間の関心も薄れていく。それどころじゃないということだ。

 事件がようやく動き始めたのは10年後の1944年になってからだった。ニュー・サウス・ウェールズ州の警察署長に新任したW・J・マッケイが「まだ解決しとらんのか!」と業を煮やし、自らが指揮を取って、改めて身元確認に乗り出したのだ。遺体の顔に化粧を施し、髪もきちんと整えて、その写真を公開した。すぐに反応があった。届け出た7人すべてが口を揃えた。
「リンダ・アゴスティーニに間違いない」

 逮捕されたアントニオ・アゴスティーニはこのように弁明した。
「結婚生活がうまく行かなくなったのは、妻が大酒を飲むようになってからでした。最初は口論だったんです。ところが、激昂した妻は拳銃を私に向けました。『何をするんだ』と私はその手を掴み、銃を奪い取ろうとしました。揉み合ううちに銃が暴発し、それが妻に命中したのです」
 真実を語っているとは思えない。暴発した銃弾が後頭部に命中すること自体が解せないし、そもそも直接の死因は頭部の殴打によるものであることが判明しているのだ。
 ところが、陪審は「謀殺(Murder)」ではなく「故殺(Manslaughter)」と認定(事件後10年も経過していたことが考慮されたものと思われる)、6年の重労働刑に留めた。
 刑期を終えたアゴスティーニは、祖国イタリアに追放されたというが、なんともすっきりしない結末である。

(2007年11月30日/岸田裁月) 


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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