ハリー・ソー
Harry Thaw  (アメリカ)



イヴリン・ネズビット

 本件には極めて個性的な3人の人物が登場する。彼らに共通するのは「過剰な欲」。人は欲ゆえに争い、欲ゆえに殺し合う。そのことをまざまざと浮き彫りにする。有り余る欲は人を破滅へと導く。御用心御用心。

 まず、火付け役としてイヴリン・ネズビットが登場する。彼女がいなければハリー・ソーがスタンフォード・ホワイトを殺すことはなかった。
 8歳の時に父を亡くした彼女の家は貧しかった。やがて母のウィニフィールドは娘の美貌に目をつける。
「この子を女優にしよう!」
 故郷ピッツバーグを捨ててニューヨークへと移住し、果敢に娘を売り込んで歩いたのだが、イヴリンはまだ15歳だ。
「ここは託児所じゃないんだよ」
 こんな門前払いの連続で、母子と弟のハワードは喰うや喰わずの毎日だったという。それでもモデルとして次第に売れ始め、
1年後の1901年にミュージカル『フロラドーラ』のコーラスガールに抜擢されるや人気赤丸急上昇。当時の書評にはこうある。

「イヴリンほどの見事な美女はかつて目にしたことがない。子鹿のように華奢で機敏且つ優雅な身のこなし。一点の非の打ちどころのない顔は恰も一輪の百合の花、瞳は褐青色のパンジー、口元は薔薇の花びらの如し」

 まさにスタア誕生の瞬間だ。あのジョン・バリモアと浮き名を流したというから大出世である。そして、数々の男を渡り歩いた後、スタンフォード・ホワイトと出会うのである。



スタンフォード・ホワイト


イヴリンのポートレート

 スタンフォード・ホワイトは極めて高名な建築家だった。マジソン・スクエア・ガーデン、ワシントン・スクエア・アーチ、センチュリー・クラブ等、彼が手掛けた建築物は枚挙に遑がない。
 そんな彼の悪い癖は若いコーラスガールにちょっかいを出すことである。それはもう殆ど病気だったと云ってよい。お気に入りの娘が舞台に立つと、コネを使ってマジソン・スクエア・ガーデン屋上の専用スタジオに連れ込む。壁には鏡が張り巡らされ、天井からは赤いビロードのブランコが吊り下がっていたという。いったいどれだけの娘がこのブランコに腰掛けたのやら、その数たるや計り知れない。当然のことながら、妻とは別居中だった。

 後の裁判におけるイヴリンの証言によれば、ホワイトとの出会いはこのようなものだった。
 1901年秋、ホワイトから「素敵なポートレートを撮ってあげよう」との誘いを受けたイヴリンは、マジソン・スクエア・ガーデンにある例のスタジオへと出向いた。
「中にはカメラマンとその助手がいました。私は衣装部屋に連れて行かれ、そこでとても綺麗な日本の着物に着替えました」
 この時に撮影したのが、彼女のポートレートの中で最も有名な左の写真である

 翌日の晩もイヴリンはスタジオに出向いた。ところが、中にいたのはホワイトだけだった。
「ホワイトさんは奥の部屋に行ってみないかと誘いました」
 そこは寝室だった。彼女はホワイトにシャンパンを飲み干すように要求された。
「飲み干してから1、2分もすると、耳の奥でドクンドクンという音が鳴り始めました。部屋中がグルグル回っているような感じでした」
 ここで証言台の彼女は泣き出してしまった。弁護人が落ち着くように励ますと、彼女は続けた。
「しばらくして目を覚ますと、着ているものは全て脱がされていました。シーツには血の痕がついています。私は悲鳴をあげました。するとホワイトさんが宥めながら云いました。『もう終わったんだよ。すべて終わったんだ』」
 つまり、彼女はこの時にホワイトに処女を奪われたと主張したわけだが、果たしてそうだろうか? 既に何人もの男と浮き名を流していたのだ。処女だったとは思えない。

 いずれにしても、彼女がこの件でホワイトを告訴しなかったことは確かである。それどころか、この後も週に数回の割合でホワイトと逢い引きを重ね、かなりの額のお手当を受け取っていたのだ。もう一人の大富豪、ハリー・ソーと結婚してからも。



ハリー・ソー

 というわけで、最後に本件の主人公、ハリー・ソーが登場する。彼は完全に狂っていた。そのギョロリと見開かれた眼からは内なる狂気が迸っている。どの写真もこんな眼なのが恐ろしい。

 1871年、ピッツバーグの大富豪の息子として生まれたハリー・ソーは、まだ幼いころからかなりの問題児だった。情緒不安定で癇癪持ち、なにかと感情を爆発させた。取り柄がないクセに目立ちたがりで、学校でもトラブルが絶えず、放校処分の連続だった。
 鉄道建設の事業で4000万ドルもの富を築いた父ウィリアム・ソーは我が子のボンクラぶりに嘆き悲しみ、相続に条件を付して息を引き取る。曰く、
「定職に就くまで相続はお預け」
「相続しても引き出せるのは年2500ドルだけ」
 ところが、母親のメアリー(ウィリアムの2人目の妻)が息子に甘かった。短期間だけ働かせて第1条件はクリア。第2条件も己れの持ち分をプラスして年8万ドルに引き上げた。

 とにかく財産を蕩尽することだけしか能がない男だった。10ドル札で煙草に火をつけ、パリでは100人以上の娼婦を集めて一人前400ドルものディナーを振る舞った。ニューヨークでは自動車でショーウィンドウに突っ込んだり、高級クラブの階段を馬で駆け上がったりと無茶苦茶である。すべてが単に目立ちたいが故の無意味な行動であり、ハーポ・マルクスや『マジック・クリスチャン』を地で行くトリックスターだったのだ。

 そんな彼のもう一つの趣味は、女に鞭打つことだった。1902年7月にはエセル・トーマスという女性から、このような訴状を提出されている。

「彼は私に花束や宝石を買ってくれました。そこまではよかったのですが、犬の鞭も買い求めました。『そんなもの、何に使うの?』と尋ねると、彼は笑いながら『君に使うのさ』。その時は冗談かと思ったのですが、彼のアパートに入ると表情が一変しました。眼にキチガイじみた色が滲んだかと思うと、いきなり私を鞭でめった打ちにしたのです。服がズタズタになるまで彼は手を休めませんでした」

 この件を金で揉み消したハリーは、以後は少し慎重になった。新聞広告で女を募集し、場所を売春宿に限定して事に及んだ。後に女将が語ったところによれば、ハリーが鞭打った女の数は233人、そのほとんどが15歳から17歳までの未成年者だったというから小児性愛の傾向もあったのだ。

 さて、そんなキチガイがイヴリンに出会ったのは1903年のことである。なんと美しい娘であろうか! 立ち所に彼女の虜となってしまった。金に物を云わせて豪華な欧州旅行を提案。これにイヴリンが乗ったというから解せない話だ。ハリーの奇行はニューヨーク社交界の話題の種で、彼女も十分に知っていた筈なのだ。
 後に彼女が自伝(『Prodigal Days』)の中で語ったところによれば、理由はホワイトに対する当て付けだったという。
「こっそりと盗み見た彼の手帖には、女の子たちの名前と誕生日がびっしりと書き込まれていました。私は嫉妬で気も狂わんばかりになりました。そこで彼にも嫉妬させてやろう。愚かにもそう思ってしまったのです」

 効果は覿面だった。ホワイトも嫉妬の炎をメラメラと燃やし、イヴリンを正妻として迎え入れることを真剣に考え始めた。それでもイヴリンがハリーと結婚したのは、おそらくホワイトが本妻と別れることに踏ん切れなかったからだろう。とにかく1905年4月5日、ハリーとイヴリンは結婚した。これがすべての間違いの元だった。
 イヴリンという女は稀代のファム・ファタールである。彼女はこの期に及んでもホワイトとの関係を続け、2人を天秤に掛けていたのである。ホワイトには「また鞭で打たれたの」と泣きつき、ハリーには「無理矢理に処女を奪われたの」と憎しみを煽った。ところが、その時のハリーの反応たるや、イヴリンの予想を遥かに上回るものだった。
 あんのやろお、ぶっころしてやるう。
 しかし、まさか本当にぶっころすとは思ってもみなかった。



ホワイトの設計による
マジソン・スクエア・ガーデン(当時)

 それは1906年6月25日のことである。マジソン・スクエア・ガーデンの屋上劇場では『マドモワゼル・シャンパーニュ』というミュージカルが初日を迎えていた。前評判は上々で、客席にはニューヨーク社交界の名士たちがずらりと顔を並べていた。その中にはもちろんスタンフォード・ホワイトも。しかし、彼の目的は観劇ではない。いつものように、舞台がはねた後のコーラスガールとの逢い引きを楽しみにしていたのだ。

 そこに1組のカップルが現れた。ハリーとイヴリンのソー夫妻である。
 その日のハリーはいつになく気が立っていた。自宅にホワイトからイヴリンに宛てた薔薇の花束が届いていたのだ。
 あのやろう、どういうつもりだ?
 実はその花束は、せっかくイヴリンが訪ねて来てくれたのに不在だったことへのお詫びの意味が込められていたのだが、そんなことはハリーは知らない。花束をゴミ箱に叩き込むと、憎悪の炎をメラメラと燃え上がらせた。
 一方、花束のことなど知らないイヴリンは、劇場でホワイトの姿を見定めると、無邪気にもハリーの耳元でこう告げた。
「ほら、Bが来てるわよ」
「B」とは2人の間でのホワイトを意味する符丁である。「バスタード=ひとでなし」や「ビースト=けだもの」の頭文字。名前を呼ぶのも汚らわしいというわけだ。イヴリン・ネズビットはつくづく悪い女である。彼女は2人の大富豪を競わせることを楽しんでいたのだ。しかし、彼女は男を手玉に取るだけの世智に欠けた。ハリーのようなキチガイを焚きつければどんなことになるかを知らなかった。

『マドモワゼル・シャンパーニュ』は前評判にもかかわらず愚にもつかない代物だった。ソー夫妻とその取り巻きは中座して出口へと向った。ところが、ハリーだけがホワイトの席の近くで立ち止まり、その背後に忍び寄った。この時の模様を『イヴニング・ワールド』紙の記者アルバート・ターヒューンはこのように記している。
「気狂いハリーはホワイトにぎらぎらと憤怒の視線を投げかけていた。私を含めた他の多くの観客は、彼の怒りの理由を知っていた」
 まわりの者は何事も起こらなければいいのにと案じていたことだろう。ちょうどその時、舞台では『決闘を挑むわよ』という唄と踊りが披露されていた。

「さあいかが。
 けっとおよ。
 けっとおの、は〜じ〜ま〜り〜!」

 ズドーン!

 ホワイトは一瞬棒立ちになったかと思うと、前のテーブルに突っ伏した。頭頂部から顔面にかけてが柘榴になっている。叫び声が場内に響いた。それでもソーは怯まずに、ホワイトに向けた銃の引き金を続けざまに2度引いた。
 しばらく沈黙が続いた。楽団は演奏の手を止め、コーラスガールはきょとんとして観客の視線の行方を追った。ハリーは銃をゆっくりと頭上にかざすと、弾倉を開けて銃弾を落とした。決闘はもう終ったことの合図である。彼は勝ったのだ。
 観客はようやく何が起こったのかを飲み込んだ。我れ先に出口へと殺到。支配人が楽団に叫んだ。
「音楽だ! 音楽を続けるんだ! 早くしろ!。カーテンを下ろせ!」
 警備員がハリーに近づくと、その手から銃を取り上げた。ハリーは云った。
「当然の報いさ。奴は俺のワイフをめちゃめちゃにしたんだ」
「俺のライフ」だったとの説もある。とにかく、連行されたハリーはエレベーターの前で愛する妻と顔を合わせた。
「ハリー、どうしてこんなことをしたの!」
「心配はいらないよ。俺は多分、おまえの命を救ってやったんだ」
 そして、イヴリンを抱き締めると、キッスの雨を浴びせたのだった。



ソーが被告席で描いていた妻の似顔絵

 この事件は合衆国市民に多大な衝撃を齎した。ニューヨークという洗練された大都会の真ん中で、衆人監視の中でこのような血なまぐさい事件が起きたことはこれまでに一度もなかったのだ。しかも下手人は大富豪である。J・R・ナッシュは『運命の殺人者たち』の中で、富裕階級全体に対する大衆的幻滅が生じたことを指摘している。

「富める者は長い間、正義と高いモラルの体現者と見なされてきた。いや、少なくとも、そういったものが、ジョン・D・ロックフェラーやアンドリュー・カーネギー、J・P・モルガンなどの時代を通じて、富者が投影してきた自身のイメージであり、それがすんなり受け入れられていたのだ。しかるに、ソー=ホワイト事件のスキャンダルがこのイメージを一変させてしまった。彼らは変質的な行為にふける気ままな連中で、金のために骨の髄まで腐っている。その日その日をかつかつ送っている低所得者層は以前からずっと疑いは抱いていたものの、エドワード朝風のたしなみから口にすることはできなかったのだ。だが、この事件で、その疑惑はいっそう強まった」

 連行されてからのハリーの言動は、それはひどいものだった。煙草をふかしながら留置場に入れられると、水と葉巻を要求した。そして、100ドル札をちらつかせて、警官をまるでボーイのように扱った。
「きみ、この金でカーネギーに電話して、俺がトラブルに巻き込まれたと伝えてくれないか」
 たった今、人を殺したというのにまるで他人事である。彼はすぐに出られるものと信じていたようだ。

 ところが、翌日から連日のように新聞に書き立てられたスキャンダルは、ほとんどが被害者であるホワイトに関するものだった。コーラスガールを喰いまくっていたことが続々と暴露されたのだ。このネガティブ・キャンペーンの音頭を取っていたのが、他ならぬハリーの母親、メアリー・ソーだった。
「あの子の命を救うためなら100万ドル払っても惜しくないわ!」
 そう公言してはばからなかった彼女は、マスコミに大金をばらまき、息子に有利な報道をさせていたのである。この親にしてこの子あり。馬鹿息子をヒーローに仕立てた芝居までも上演したというから呆れてしまう。
 一方、ハリーはというと、三度の食事は高級レストランから出前を取り、ワインやシャンパンも飲み放題。看守は全員買収されていた。まったく馬鹿につける薬はない。

 大弁護団が描いたシナリオは、被告を「美女を野獣から守る白馬の騎士」に仕立てることだった。そして「アメリカ性痴呆症(Dementia Americana)」という耳馴れない病気を患っているとして心神喪失を主張したのである。曰く、
「アメリカ人男性特有の一種のノイローゼで、妻たる女性はすべて神聖だと信じており、この信念に反する行動に出る輩を見ると良心の呵責に堪え切れず、これを抹殺しようとする」
 もちろん、こんな病気は存在しない。弁護団が勝手にでっち上げた病名である。それでも5人の陪審員が信じたために評決に至らず、第一審は流れた。
 第二審ではハリーの家系にまつわる具体的な狂気が挙げ列ねられた。父方では、叔母が幼児期に発狂、従兄弟が鬱病で死亡、腹違いの妹はいまだに癲狂院暮らし。母方では、叔父が精神薄弱、もう1人の叔父と従兄弟は精神異常。また、ハリーの兄ホーレスも23歳の時に被害妄想のために癲狂院に送られて、38歳で死亡している。
 案の定、背筋が寒くなるほどヤバい家系だったのだ。
 まあ、うちの家系も似たようなものだけどね。
 かくして陪審員は精神異常と認定。無罪となったハリー・ソーはニューヨーク州北部のマテウォン精神病院に収容された。門をくぐって最初に発した言葉は「シャンパンが欲しい」だったというから、まったくふざけた野郎だぜ。



1926年に再会したハリーとイヴリン

 ハリーが精神病院に収容されると、母メアリー率いる大弁護団はグルリと方向転換する。今度は息子の「正気」の立証を始めたのである。馬鹿な息子ほど可愛いというが、いい加減にしたらどうだいお母さま。彼女は既に息子のために100万ドル以上も散財していたが、1000万ドルでも投げ出す勢いだった。
 一方、息子は7年後の1913年8月17日にヤクザの手を借りて脱走。列車でカナダに逃げ延びたものの、2日後にあっさりと逮捕された。馬鹿息子を一目見ようと大群集が駅に押し掛け、それを人気と勘違いしたハリーが笑顔で手を振る一幕も見られたという。
 母親の努力が実ったのは1915年7月16日になってからである。買収に買収を重ねた挙句、ようやく裁判で「正気」を勝ち取り、気狂いハリーは再び世に放たれた。しかし、翌年にフレドリック・ガンプという17歳の少年をホテルのスイートルームに監禁し、鞭打ちしていたことが発覚。マテウォンに連れ戻されてしまう。再び釈放されるのは1922年のことである。

 サディストで小児性愛、おまけに両性愛者の気狂いハリーは、イカレポンチなだけでなくモルヒネ中毒だったとの噂もある。その後もたびたび暴行事件を繰り返し、金の力で揉み消していた。1947年没。76歳だった。

 かたや本件のヒロイン、イヴリンはハリーの母メアリーに買収されて、云われるままに裁判で証言した後、全国を巡業してたんまりと稼いだ。映画にも出演したという。やがて男子を出産。ハリーの子だと云い張ったが、身に憶えのないハリーは認めなかった。1915年に離婚が成立。ナイトクラブの経営に乗り出すも倒産。1926年にはクレゾールを飲んで自殺を図っている。
 馬鹿は死ななきゃ治らない。
 そんな一言を添えたくなる一件である。

(2007年2月14日/岸田裁月) 


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『運命の殺人者たち』J・R・ナッシュ著(中央アート出版社)
週刊マーダー・ケースブック47『死を招いた三角関係』(ディアゴスティーニ)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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