エルンスト・ワグナー
Ernst August Wagner (ドイツ)



エルンスト・ワグナー

 エルンスト・ワグナーは1874年9月2日、バーデン=ヴュルテンベルク州ルードヴィクスブルグ郊外の貧しい農家に生まれた。10人兄弟の9人目だが、うち6人は幼い頃に死亡している。
 2歳の時に飲んだくれの父親が他界すると、母親は農地を売り払って店を開く。間もなく再婚するが、数年後に離婚。一家は再び貧困に見舞われる。

 恵まれない境遇にも拘らず、成績優秀だったワグナーは教職の資格を取得する。そして、1894年からいくつかの学校で補助教員として教鞭を執るわけだが、1900年4月には短気な性格ゆえに半年間の停職処分を下されてしまう。自尊心が高い彼は多いに傷ついたことだろう。その間、スイスに渡って自作の詩を新聞社に売り歩いていたが、商売にはならなかったようだ。

 復職を許されたワグナーは、1901年7月に後の惨劇の舞台となるミュールハウゼン(現在のミューラッカー)に赴任する。
 後に彼が語ったところによれば、赴任して間もなく、酔った勢いで「動物を犯した」。何の動物かは不明だが、とにかくこのことが後の惨劇の引き金となる。酔いが醒めた彼は猛烈な自己嫌悪に陥り、
「誰か村の者が見ていたのではないか? そのことを皆で噂しているのではないか? 馬鹿にしているのではないか? 嘲笑っているのではないか?」
 などと疑心暗鬼を生じさせて行ったのである。

 とにかく、動物を犯してしまうぐらいだから性欲が旺盛な男だったようだ。たしかに、絶倫そうな顔立ちをしている。翌年には居酒屋の娘、アンナ・シュレヒトを孕ませてしまう。おそらくそのことが原因でワグナーはレイデルシュテッテンに転勤を命じられる。更に辺鄙な場所である。自尊心が高い彼は憤慨するが、疑心暗鬼からは逃れることが出来た。しかし、それはあくまでも一時的にだ。獣姦行為の事実はその後も彼を悩ませ、確実に精神を蝕んで行ったのである。

 1903年12月29日、ワグナーはアンナと渋々ながらも籍を入れる。長女のクララは既に10ケ月になっていた。その後もエルサロベルトリヒャルドと〆て4人の子をもうけるが、彼は妻のことを全く愛していなかった。教養がないことを小馬鹿にし、使用人程度にしか思っていなかったことだろう。

 1904年の夏、ワグナーは再びスイスを訪れ、2度の自殺を試みている。1度は川に身を投げ、1度は橋から飛び降りた。しかし、遂げることは出来なかった。ワグナー曰く「意思が弱かったんだ」。この時に遂げていれば、あんなに死なずに済んだものを。

 1906年頃からワグナーは再び過去の失態に悩まされるようになる。
「ミュールハウゼンの連中は俺が獣姦したことをこの村で吹聴しているのではないか? 馬鹿にしているのではないか? 嘲笑っているのではないか? いや、きっとそうに決まっている。間違いなく云い触らしている」
 彼は曖昧ながらもミュールハウゼンへの復讐の準備を始めた。拳銃を手に入れ、休日には郊外で射撃の練習に励んだ。

 1909年から1911年にかけて、ワグナーはいくつかの学校を転々とした後、1912年3月にデガーロッホに赴任した。この頃には彼の復讐のプランは明確なものになっていた。Xデーは夏休みの最後の日。皆様方よ、今に見ておれで御座いますよ。


 1913年9月4日午前5時、ワグナーは睡眠中の妻を鈍器で殴って気絶させ、ナイフで喉を切り裂き、心臓を突き刺した。これと同じことを4人の子供に繰り返す。遺体に毛布を掛けて、返り血を洗うと、2挺のモーゼルC96と1挺のリボルバー、500発の銃弾、そして顔を覆うための黒いベールを鞄に詰め込んで、自転車でシュトゥットガルトに向かった。午前8時10分の列車に乗り、ルートヴィヒスブルクで下車。そこでバックパックを購入した後、午前11時に兄の家に寄る。しかし、兄は不在だったので、義姉にこのように告げている。
「ミュールハウゼンにいる子供たちを迎えに行くところなんだ」
 その後、午後1時の列車に乗り、ビーティッヒハイムで下車。そこで知人やら新聞社やら学者やらに宛てた手紙をいくつか郵送し(その中には姉宛の「毒を飲め!」という短い文面のものもあった)、手荷物として預けていた自転車を受け取ると、午後7時にビーティッヒハイムを出発。ミュールハウゼンに着いた頃には午後11時を回っていた。

 当初の計画では電話線を切る筈だったが、電柱が思いのほか高かったので已むなく断念。家々に火を放つと、逃げ出す人々を次々に銃撃した。最終的に20人が被弾、うち9人が死亡した。中には10歳の少女も含まれていたが、ワグナーによればこれはミスショットだという。彼は男しか狙っていなかったのだ。
 結局、弾の装填をトチったために3人の村人に鍬で反撃されて、計画は頓挫するに至ったのである。本来ならばこの村に住む姉の一家も殺す筈だったし、その後にルートヴィヒスブルク城で自殺する予定だったのだ。

 かくして、お縄になったエルンスト・ワグナーは死刑を望んでいたのだが、偏執病と診断されて癲狂院送りとなった。そして、獣姦男という生き恥に苛まれながら、1938年4月27日に死亡した。

 なお、1938年5月21日、岡山県津山市で都井睦雄が村民30人を殺害した事件(いわゆる津山事件)が発生した折り、ワグナーの事件との類似性が識者から指摘されたという。たしかに、両者はよく似ている。恰もワグナーの魂が都井に乗り移ったかのようだ。

(2009年1月24日/岸田裁月) 


参考文献

『THE ENCYCLOPEDIA OF MASS MURDER』BRIAN LANE & WILFRED GREGG(HEADLINE)


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