アリス・ワインクープ
Dr. Alice Wynekoop (アメリカ)



アリス・ワインクープ


地下室の診察台

 理解に苦しむ事件である。いったい何が起こったのか、明らかにされていないし、動機も謎のままだ。ただ、年老いた女医が嫁を殺害したことだけは間違いないようである。

 シカゴ在住の未亡人、アリス・ワインクープ(62)は地元では有名な内科の開業医だった。腕がいいだけでなく慈善家としても知られ、夫に先立たれてからは自宅を改造して、老齢者たちに下宿を提供していた。子供はみな独立していたが、ただ一人、末っ子のアールだけが定職につかずプラプラしていることが唯一の悩みの種だった。
 そんなアールがインディアナポリスで見初めたリタ・ガードナーと結婚し、母親のもとに転がり込んで来た。過保護な彼女はこれを受け入れたが、これが間違いの元だった。放蕩息子のアールはしばらくするとまたプラプラと出歩き始めた。何週間も帰って来ないこともざらである。新妻と姑は気まずい日々を送らなければならなかった。

 それは1933年11月21日の夜遅くのことである。娘のキャサリンからの電話の中で、アリスはうろたえながらトンデモないことを告白した。
「あのね、リタがね、リタが…死んだのよ。撃たれたの」
「えっ? お母さん、どういうこと?」
「それが…私にもよく判らないの」
 キャサリンの通報により警官が駆けつけると、アリスは自宅に招き入れて、こう云った。

「なにかひどく恐ろしいことがここで起こりました」
(Something terrible has happened here.)

 他人事なのが却って不気味である。

 リタの遺体は地下室の診療台の上に俯せに横たわっていた。掛けられていた毛布を剥ぐと、彼女は裸だった。胸を撃たれている。凶器の銃は彼女の頭の脇に置かれていた。
 奇妙なことに、彼女の口は焼けただれていた。検視により、それはクロロホルムによるものだと判明した。
 いったい何があったというのだ?

 当初は強盗の仕業だと弁明していたアリスであったが、やがてこのように供述を変えた。

「リタが『具合が悪いので診て欲しい』と云ってきました。痛みが酷いようなので、私は麻酔としてクロロホルムを与えました。ところが、気がついたら彼女の呼吸は止まっていました。慌てて人口呼吸を施しましたが、すでに手遅れでした。気が動転した私は、自分でもどうしてそんなことをしたのか判らないのですが、そばにあった銃で彼女の胸を撃っていました」

 とても信じられる話ではない。口が焼けただれるほどのクロロホルムを麻酔として与えることはありえないし、事故で死んだ嫁の胸を銃で撃つこともありえない。そもそも、診察室に銃があること自体がありえない。
 彼女は放蕩息子のことを庇おうとしているのではないだろうか? しかし、この推測は否定された。事件当夜、彼は愛人と共に、遠く離れたアリゾナで列車に乗っていたことが確認されたからだ。完璧なアリバイがあるのだ。

 結局、動機等多くの部分が不明のまま、有罪を評決されて25年の懲役刑を科されたアリスは、その後も真相を語る事なく、獄中で死亡した。78歳だった。

 私が思うに、嫁が自殺を図ったのではないだろうか? 新しい環境に馴染めず、頼りにしていた夫も遊び歩く中で、彼女の精神が病んでいたことは想像に難くない。それで自らクロロホルムを呷ったのだ。アリスが発見した時には瀕死だった。しかし、死に切れずに苦しんでいた。見るに見かねた姑は、楽にしてあげるためにとどめを刺した…。
 これが真相だったのではないだろうか? いずれにしても、彼女が殺したことには変わりない。
 では、どうして真相を明かさなかったのか? おそらく、息子に非難が集まることを恐れたのだろう。それほどにバカ息子が可愛かったのだ。

(2007年10月22日/岸田裁月) 


参考文献

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)
『LADY KILLERS』JOYCE ROBINS(CHANCELLOR PRESS)


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