イーディス・カルー
Edith Carew (イギリス・日本)


 

 英国人の貿易商、ウォルター・カルーが新妻のイーディスと共に遥か極東の地、日本に渡ったのは1889年のことである。その後の7年間、夫妻は横浜の外人居留地でエキゾチックな異国での生活を楽しんでいた。ところが、1896年(明治29年)10月、ウォルターが突然の腹痛に倒れる。ウィーラー医師のお見立てによれば消化不良とのこと。次第に回復の方向に向かうが、間もなく急にぶり返し、海軍病院に運ばれた2時間後に死亡した。

 数日後、ウィーラー医師は自宅のドアの下に奇妙な手紙を発見した。
「1週間で砒素が3瓶!」
(Three bottles of arsenic in one week !)
 署名には「マルヤ(Maruya)」とある。日本人の薬種商だ。早速、マルヤに問い合わせたところ、砒素を3瓶も注文したのはウォルターの妻、イーディスであることが判明した。
 イーディスは砒素を購入したことは認めた。しかし、それはウォルターに頼まれたからだと釈明した。彼女によれば、ウォルターは長きに渡って原因不明の病に苦しんでおり、その痛みを紛らわすために砒素を常用していたというのだ。

 また、イーディスは取調べにおいて、アニー・ルークなる女性の関与を仄めかした。彼女はウォルターの結婚前の交際相手で、彼が死ぬ2週間前にひょっこりと訪ねて来たというのだ。
 わざわざ極東の日本にまで?
 にわかには信じられない話だが、とりあえずは彼女の話を聞いてみよう。
 アニーは黒いドレスに身を包み、顔はベールで覆っていたいう。イーディスが夫の不在を告げると、名刺を手渡して立ち去った。また、イーディスは夫の書類箱から見つけたという「アニーからの手紙」を証拠として提出した。その中でアニーはウォルターにラブコールを送り、再会を懇願していた。

 一方、その頃、イーディスの弁護人の下にも「アニーからの手紙」が届いていた。彼女はウォルターの後を追うこと、すなわち自殺を仄めかし、イーディスのことを「何も知らない愚かな女」として、その無実を訴えていた。

 黒いドレスに顔にはベール。当時の日本では大いに目立ちそうなものだが、そのような女の目撃者はたった1人しか現れなかった。ヘンリー・ディッキンソンという名の若い銀行員だ。ウォルターに会いに来たというその頃に商館で見たというのだ。たった1人だけとはいえ、その存在は一応は裏づけられた。これで容疑者は2人いることになる。

 ところが1週間後、イーディスがウォルター殺害の容疑で起訴された。イーディスの子供の家庭教師、メアリー・ジェイコブが、屑籠の中からイーディスに宛てたヘンリー・ディッキンソンの「ラブレター」を発見したと証言したからだ。つまり、黒いドレスの女の唯一の目撃者はイーディスと通じていたのである。

 法廷にはその「ラブレター」が証拠として提出された。ヘンリーも証人として出頭し、イーディスへの愛情を告白した。「夫から暴力を受けている」と彼女に泣きつかれて、慰めているうちに同情が愛情に変わったというのだ。黒いドレスの女についても、イーディスと示し合わせていたことを認めた。

 筆跡鑑定もまたイーディスに不利に働いた。アニーからの手紙がイーディスの筆による可能性が高いことが証明されたのだ。これに対してイーディスは、アニーの存在をなおも主張し、その情報を求めて500ポンドの懸賞金を掛けたが、端からは悪足掻きとしか思えなかった。

 かくしてイーディス・カルーは夫殺しの容疑で有罪となり、死刑判決が下された。但し、後に終身刑に減刑されて、本国に送り返されている。
 マーティン・ファイドー著『世界犯罪クロニクル』は事件をこのように評している。

「故国を離れて熱帯地方で暮らすということは、英国人にはまったく似つかわしくない情熱をもたらす何かが存在している。こうして横浜の英国領事は、同国人の女性が歌舞伎の鬼女にふさわしい行為をした恐れがあるということで、意にそまない裁判を行う義務を引き受けることになった」

 熱帯だから情熱的になるということはないと思うが、異国の異文化に触れているうちに現実感がなくなり、犯罪に手を染めてしまうということはあるのかも知れない。

(2009年6月22日/岸田裁月) 


参考資料

『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)
『LADY KILLERS』JOYCE ROBINS(CHANCELLOR PRESS)


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