ジョン・スチュアート
ジェイムス・フィンチ

John Stuart & James Finch (オーストラリア)



ジェイムス・フィンチ


ウィスキー・オー・ゴー・ゴー

 1973年3月8日、クイーンズランド州ブリスベンのナイトクラブ「ウイスキー・オー・ゴー・ゴー」で火の手が上がった。9リットル入りのガソリン缶2つがロビーに投げ込まれ、その直後に火が放たれたのだ。およそ100人の客はパニックに陥り、窓に突進したが開かなかった。放火犯が御丁寧にも外からかんぬきを掛けていたのだ。しかも、易々と逃げ出せないように、フェンスにラードを塗り込む念の入れようである。おかげで死者15人(うち5人は女性)の大惨事となった。この数は当時のオーストラリアにおける大量殺人の最多記録である。

 2日後、警察にタレ込みの電話があった。
「火を放ったのは弟のジョン・スチュアートと、その相棒のジェイムス・フィンチだ。弟はブリスベンのナイトクラブから見ヶ〆料を取ろうとしていた。そのために警告として火を放ったんだよ」
  かくして両名は逮捕された。共に札付きのワルで、フィンチは10日ほど前に英国から渡って来たばかりだった。その旅費はスチュアートが立て替えていたことから、フィンチは彼に雇われたと見るべきだろう。

 スチュアートの兄や目撃者の証言にも拘らず、両名は共に無罪を主張した。スチュアートに至っては、これは警察とシドニーのシンジケートがグルになって仕組んだ罠だとさえ主張した。検察はもちろんこれを一蹴。
「シンジケートの関与はお前が流したデマじゃないか。お前はそうやってオーナーを怯えさせて見ヶ〆料を掠め取ろうとしていたんだ」
 この戦術ではアカンと思ったのか、スチュアートは三たびも針金を飲み込んで病院に収容された。遅延作戦である。しかし、これもそういつまでも続かない。半年後にはようやく結審し、両名には終身刑が下された。

 その後もスチュアートは無罪を主張し続けた。注目を集めるためにハンガーストライキを行ったり、刑務所の屋根に登ってレンガで「INNOCENT」とかたどってみたり、相変わらず針金を飲み込んだりしていたようだ。そして1979年1月1日、6日間に及ぶハンガーストライキの末に特発性心筋症により死亡。38歳だった。

 相棒の死はフィンチにとっては追い風になったようだ。彼もまたハンガーストライキを行い、右手の小指を食べたりして注目を集めた結果、そこまでするなら本当に無実なのではないかとの声が広まり始めた。そして、1988年2月17日、英国に帰国することを条件に釈放されたのである。
 ところが、帰国した途端にフィンチはあっさりと罪を認めた。これには支援者は呆れ返った。当時の妻もその一人だ。彼を見限ると、さっさと別れて帰国した。

(2009年2月19日/岸田裁月) 


参考文献

『THE ENCYCLOPEDIA OF MASS MURDER』BRIAN LANE & WILFRED GREGG(HEADLINE)


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