バディ・ジェイコブソン
Howard "Buddy" Jacobson (アメリカ)



バディ・ジェイコブソン


メラニー・ケイン

 バディ・ジェイコブソンの裁判はすぐにでも結審するかに思われた。彼には明確な動機があり、証言も揃っていた。にも拘らず結審に至るまで11週間も要したのは、被告の弁明にも分があったからに他ならない。つまり、ジェイコブソンがハメられた可能性も一概には否定できないのだ。

 ハワード・ジェイコブソン、通称バディはもともとは優秀な競馬調教師だった。見込みがありそうな馬を安く買い、勝ち馬に育て上げる腕には定評があった。1963年から3年間連続で最多勝利をものにしたというから大した腕前である。
 しかし、その一方で彼自身の評判は芳しくなかった。「競馬はあくまでもビジネス」と割り切り、「馬は儲けるための道具に過ぎない」と公言してはばからなかった。高額なギャラを要求していた彼は、厩務員たちを煽動してストライキを起こし、全米の競馬場を敵に回した。やがて馬にステロイド剤を投与していた疑惑が浮上。ライセンスを奪われたジェイコブソンは、これまでの稼ぎを元手に不動産業に転身した。見込みのありそうな物件を安く買うという意味で、彼にとっては馬も不動産も同じだったのだろう。
 後の殺人の舞台となるニューヨーク東84番街115番地のアパートメントもジェイコブソンが所有する物件の一つだった。自らが7階のペントハウス、7D号室に君臨し、階下の部屋を若いモデルや女優のたまごで埋め尽くした。それはまるで新しい厩舎のようだった。

 1973年12月、ジェイコブソンは18歳のモデル、メラニー・ケインと同棲を始めた。ちなみに、当時の彼は29歳と称していたが、実は43歳だった。弟として紹介していた2人の若者、デヴィッドとダグラスも本当は息子である。
 メラニー・ケインは『セブンティーン』誌の表紙を飾る人気モデルだった。しかし、彼女は現状に満足していなかった。大人向けのファッション誌での活躍を望んでいたのだ。所属事務所と仲違いの末に独立した彼女は、自らモデル事務所「マイ・フェア・レディ」を設立した。その共同経営者となったのが、他ならぬジェイコブソンだった。
 東84番街115番地のアパートはいよいよ「新しい厩舎」の様相を呈して来た。1階にはモデル事務所、上階には美人モデルが犇めいていたのだ。人々は口々に噂した。
「バディはイーストコーストのチャールズ・マンソンになろうとしている」
 選り取り見取りのプレイボーイ生活を満喫していたわけだが、メアリーとの同棲はその間も続いていた。

 そんなジェイコブソンにメラニーが見切りをつけたのは1978年7月のことである。隣の7C号室に住むジェイコブソンの友人、ジャック・タッパーに鞍替えしたのだ。
 33歳のタッパーは、表向きには「バー経営者」とのことだが、実は裏の顔があったことが判明している。FBI曰く「南米から合衆国にコカインを密輸しているグループの首謀格と目される人物」。故にいつ殺されてもおかしくない人物だったのだ。
 メラニーを失ったジェイコブソンは初めてその大切さに気づいたようだ。メラニーは俺の女だと喚いて回り、人を雇って2人を尾行させる等、様々な嫌がらせをした。メラニーを返してくれれば10万ドルと別の女を提供しようなどとタッパーに持ちかけたりもした。メラニーはそんな元カレに心底愛想を尽かし、タッパーと共に別のアパートを探し始めた。

 1978年8月6日日曜日、メラニーは午前9時に目覚めた。シャワーを浴びようとすれども湯が出ない。
「またあいつの嫌がらせだわ」
 隣のジェイコブソンを叩き起こして文句を云う。彼は給湯設備を調べると、
「しばらく待ってくれ。湯はもうすぐ出るから」
 ところが、いつまで経っても出なかった。取って返して扉を叩き、ジェイコブソンにこう告げた。
「これから新居の契約に出掛けるから、帰って来るまでにちゃんと直してちょうだい」
 数分後、今度はジェイコブソンが7C号室、すなわちメラニーの部屋の扉を叩いた。曰く、
「うちの事務所のシェリル・コーリーが昨日の晩、東85番街のアパートから転落死したそうだ」
「嘘でしょ?」
「いや、本当だ。彼女のルームメイトが知らせて来た。詳しいことは判らないが、警察が事情聴取に来るかも知れない」
 これを受けて、メラニーは皮肉混じりにこう返した。
「あなた、おとといの晩、シェリルとデートしてたわね。警察に油を絞られるから覚悟しときなさいよ」
 その後、メラニーはまだ眠っているタッパーを残して、新居の契約に出掛けた。その際にラジオの報道でシェリルの件が事故だと耳にした彼女は、その旨を電話でジェイコブソンに伝えたと法廷で証言している。このことは犯行時にジェイコブソンがアパートにいたことの裏づけとなった。
 なお、ジェイコブソンによれば、そんな電話を受けた憶えはないという。彼は犯行時には外出していたと主張した。

 1時間半後、メラニーが自室に戻ると、タッパーの姿は消えていた。ジェイコブソンの扉を叩けども返事がない。しかし、中で家具を動かすような音が聞こえた。
 階下でシェリルについて彼女のルームメイトと話した後、7階に戻るとジェイコブソンが廊下に跪いて、汚れたカーペットに白ペンキを塗っていた。彼の部屋を覗き込むと、鏡が割れ、長椅子のクッションが床に散乱し、8月だというのに暖炉の火が燃えていた。
 メラニーは2時間ほど昼寝した後、ようやく不審に思ってタッパーを探し始めた。この際、ジェイコブソンの部屋の中を覗き穴から覗いた彼女は、ジェイコブソンと息子のダグラスが、先ほどのカーペットを小さく切り刻み、ゴミ袋に詰め込んでいるのを目撃した。以上はすべてメラニーの証言に基づくものである。

 その日の午後、ブロンクスのゴミ捨て場で燃え上がる棺桶ほどの木箱が発見された。中身はジャック・タッパーだった。彼は殴られ、ナイフで刺され、7発の銃弾を撃ち込まれていた。発見者は現場から黄色いキャデラックで立ち去る3人の男を目撃していた。うちの1人がバディ・ジェイコブソンだった。

 かくして逮捕されたジェイコブソンはこのように弁明した。
「タッパーを殺したのは7F号室に住むジョー・マーガレイタだ。タッパーは麻薬の密売を巡るトラブルで殺されたんだ。証拠を隠滅したのはメラニーに頼まれたからだ。彼女もまた麻薬に関わっていたんだ」
 この弁明にはそれなりに分があるように思える。彼の犯行を裏づけるのはすべてメラニーの証言だし、マーガレイタもその日以降は行方知れずだ。また、前日にシェリル・コーリーが転落死している件を思い出して頂きたい。今まさに警察が事情聴取に現れるかも知れない最中に敢えて人を殺すだろうか?
 しかし、陪審員は彼の弁明を最終的に却下し、有罪を評決した。遺体の無惨な状態から、ギャングの仕業ではなく嫉妬に狂った男の犯行と判断したのだ。また、ジェイコブソンが陪審員を買収しようとしていたことも悪く働いたようである。

 刑の宣告を待つ間、ジェイコブソンは仲間の手助けで逃走し、新しい恋人と共にカリフォルニアに身を隠すも、1ケ月後に息子のデヴィッドの裏切りにより逮捕された。そして、25年の刑を宣告された9年後の1989年5月に癌のために死亡した。
 一方、ジョー・マーガレイタは1982年に大麻を密輸しようとしたかどで逮捕されて、ようやく姿を現した。しかし、ジャック・タッパー殺しへの関与については明らかにされることはなかった。

(2009年3月5日/岸田裁月) 


参考文献

『世界殺人者名鑑』タイムライフ編(同朋舎出版)
『検死解剖』トーマス野口(講談社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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