アルヴィン・リー・キング
Alvin Lee King III (アメリカ)


 1980年6月22日、テキサス州デインジャーフィールドの第一バプティスト教会での出来事である。その日は日曜日で、およそ350人ほどの信者がジム・パウエル牧師の説教に耳を傾けていた。と、そこに突然、一人の男が乱入するなり叫んだ。

「戦争だ!(This is war !)」

 そして、手にしていたM16アサルトライフルを乱射し始めたのである。男の名はアルヴィン・リー・キング(48)。軍服と防弾チョッキ、ヘルメットに身を包み、M16の他にもM1カービンと2挺のリボルバー(22口径と38口径)で武装していた。また、肩から下げたバッグには250発もの銃弾が収められていた。それはまさにたった一人の戦争だった。

 ジーナ・リナム(7)
 セルマ・ロビンソン(78)
 ジーン・ガンジー(49)
 ジェイムス・マクダニエル
 ケネス・トゥルイット

 ところが如何せん、多勢に無勢。数人の気の荒い若者に飛びかかられて、キングは思うように作戦を遂行出来ない。やがて眼鏡を奪われて、横山やすしのお家芸「眼鏡、眼鏡」の状態に陥る。これでは戦闘不可能である。かくしてキングはその場から脱兎の如く逃げ出して、教会前で銃口をこめかみに当てて自殺を図るも、どうしたものか死に切れなかった。つまり、彼の計画は大失敗に終わったのである。もっとも、死者5人、負傷者は10人にも及んだのだから大惨事には違いない。だが、彼はもっと殺すつもりだった。なにしろ「戦争」なのだから。

 現場から8マイルほど離れたキングの自宅では、妻のグレッチェンがキッチン・テーブルに縛られていた。テーブルの上には書き置きがある。
「エレミヤは云った。キングはキングの中のキングだと」
(Jeremiah says the King is the King of Kings.)
 エレミヤとは旧約聖書に出て来るユダヤの預言者のことらしいが、あいにく私はキリスト教徒ではないのでチンプンカンプンだ。要するに「俺はエラいんだと昔の人も云ってるよ」ということが云いたいのだろう。
 更に驚くべきことに、自宅の地下室からは「ソビエト大使館から届いたソビエトへの亡命許可状」「今年の春にスイス銀行から届いた300ドルの預かり証」「キング夫妻のパスポート」の3点セットが見つかったという。キングという男は大量殺人の他にも「何か」を企んでいたことは間違いない。


 アルヴィン・リー・キングはテキサス州コーパス・クリスティの裕福な家庭に生まれた。両親は酒屋や質屋、そしてジュークボックスの賃貸業等、幅広く営んでいたという。やがてキングは数学教師の資格を得て、妻子と共にデインジャーフィールドに移り住む。1966年のことである。なお、その年にキングはショットガンを暴発させて父親を死に至らしめている。当時は事故として扱われたが、それが本当に事故であったのか、今となっては疑わしい。

 デインジャーフィールドのハイスクールではキングは奇人として知られていた。全ての教師に要求される「神を承認する旨の誓い」を拒絶し続けたのだ。教え方も奇妙だった。BとCの間にいる生徒の成績をどっちにするかカードで決めたりしていたという。そして1972年、突如として学校を辞めてトラック運転手になったというのだから、こりゃ相当な奇人である。
 その5年後に自宅が焼けたのを機に、今度は農夫に転向する。柔道を習ったり、銃を集め始めたのはこの頃からである。

 犯行の切っ掛けとなった事件が発生したのは1979年10月のことだ。キングの娘のシンシア(19)が警察署に出頭し、過去10年に渡って父親に犯されて来たことを告白したのだ。その裁判が予定されていたのがまさに犯行の翌日、1980年6月23日のことだったのである。
 なお、彼女に父親を訴えることを説得したスタンリー・シンクレア牧師(20)は1979年11月にヒューストンで遺体となって発見されている。死因は刺殺だった。この件についてもキングの犯行が疑われているが、結局、その罪を問われることはなかった。

 キングは精神状態が疑われたため、一旦はその筋の病院に収容されて、リハビリを経て改めて裁かれる運びとなった。ところが、裁判が1週間後に迫った1981年1月12日、キングは獄中で首を吊って自殺した。これ以上、生き恥を晒すのは堪らなかったのだろう。

(2009年5月7日/岸田裁月) 


参考資料

『THE ENCYCLOPEDIA OF MASS MURDER』BRIAN LANE & WILFRED GREGG(HEADLINE)
http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,952699,00.html


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