バリー・プルードム
Barry Prudom (イギリス)



バリー・プルードム

 1982年6月17日、ヨークシャー州ハロゲートの路上でデヴィッド・ヘイグ巡査の遺体が発見された。頭を至近距離から撃たれていた。その手帳の最後の書き込みにはこうある。
「KYF326P クライヴ・ジョーンズ 1944・10・18」
 おそらく、このナンバーの車を取り締まった直後にトラブルに遭い、殺害されたのだろう。間もなく「KYF326P=グリーンのシトロエン」の持ち主の本名がバリー・ブルードムであることが判明した。傷害の容疑で捜査令状が出されていた男である。

 数日後、「KYF326P」がリーズ付近で発見された。ブルードムは車を捨てて逃走したようだ。
 一方、その頃のブルードムは隣のリンカーンシャー州に逃げ延びていた。そして、6月20日には年配のフレッダ・ジャクソン宅に押し込み、逃走資金として5ポンドを奪い取っている。
 6月23日にはジョージ・ラケット宅が襲われた。ブルードムは抵抗する者には容赦しなかったようだ。ラケットは抵抗したために、現金と車だけでなく命まで奪われた。妻のシルビアもまた頭を撃たれたが、一命だけは取り留めている。

 6月24日、ブルードムはラケットから奪った車でノース・ヨークシャーまで逃げたところでケネス・オリヴァー巡査に誰何された。巡査はまだ幸運だった。7発もの銃弾を喰らったにも拘らず致命傷を負わずに済んだのだ。
 この頃には警官殺しの逃走犯は新聞の一面記事を飾っていた。面目を潰された形の警察は3千人規模の体制でプルードムのことを追っていた。海外にでも高飛びしない限り、逮捕は時間の問題だった。

 6月28日にはオールド・モールトンでデヴィッド・ウィンター巡査が銃撃された。彼もまたプルードムを誰何したところをいきなり発砲されたのだ。英国の巡査は我が国とは異なり銃を携帯していない。つまりプルードムは丸腰の巡査を壁まで追いつめて、止めを刺したのである。その凶悪さと警察に対する怒りの激しさが窺える。

 ブルードムは確実に追いつめられて行った。7月3日にはジョンソン家に押し入り、モーリス・ジョンソン夫妻と息子のブライアンを人質に取って籠城した。ジョンソン家の人々は賢明にもブルードムに逆らわなかった。すると彼は次第に心を許し、これまでにして来た数々の悪行を語り始めた。例えば、最初のヘイグ巡査についてはこんな具合である。

「俺は車の中で眠っていたんだ。それが悪いことだとは思えない。ところが、あの野郎は車から出ろと命令して来やがった。高慢な態度でだ。だから、俺は撃ったんだよ」

 犯人と人質の間には時が経つにつれて信頼関係が形成されるという。ブルードムの場合もそうだった。彼はやがて3人に紅茶を勧め、縄を解き、そして、こう語りかけた。

「俺たち、うまくやって行けそうだな」

 凶悪な殺人者が人間性を取り戻した瞬間である。ジョンソン家の3人は自首を勧めたが、ブルードムは頑なに拒んだ。

「そいつは駄目だ。警察にだけは捕まりたくない。いっそのこと、死んだ方がマシだ」

 よほど警察を憎んでいたと見える。そして、その日の深夜にブルードムは、ジョンソン家の人々に礼を云って、屋外へと出て行った。おそらく、この時に既に自殺を決意していたのだろう。ジョンソン夫人曰く、

「彼は食事代も払えないことを詫びていました。そして、最後にこう付け加えました。世の中にこんなにいい人がいるとは知らなかった、と…」

 ジョンソン家付近の物陰でブルードムの遺体が発見されたのは7月4日未明の午前5時頃のことである。狂犬は最期には人間性を取り戻し、そして、自らの頭を撃ち抜くことで人生に決着をつけたのだった。当館には珍しく、しんみりとした結末である。

(2009年5月10日/岸田裁月) 


参考資料

『現代殺人百科』コリン・ウィルソン著(青土社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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