ヘンリエッタ・ロビンソン
Henrietta Robinson
a.k.a. The Veiled Murderess (アメリカ)


 

 1852年にニューヨーク州トロイの街に住み着いた当初から、ヘンリエッタ・ロビンソンは正体の知れない女だった。立派な身なりの紳士が訪ねて来ては、彼女のコテージで一夜を過ごしていたことから、金持ちの、例えば政治家か何かの妾ではないかと噂されていた。
 折りを見てご近所さんが聞き出したところによれば、欧州の王族の血を引く者で、フランスのお城に住んでいたとか、アイルランドの領主の娘で、使用人と恋仲になったために屋敷から追い出されたとか、貴族の落し胤で、イングランドの修道院で育てられたとかまちまちで、どれが本当なのやら判らない。おそらくいずれも嘘なのだろう。何かを仕出かして故郷にいられなくなり、愛人と共にアメリカに渡ったものの、その男からも捨てられて、今ではどこぞのどなたの妾に落ち着いたってなところが真相なのだろう。

 ところが、間もなくヘンリエッタは「どこぞのどなた」からも捨てられてしまう。彼女が今迄以上におかしくなり始めたのはそれからだ。会話の途中で突然に泣き出したり、かと思うと笑い出したり、挙げ句の果てにはギクシャクと踊り出したりと、情緒不安定の症状を見せ始めたのである。
 それでも彼女はこの街での生活に馴染もうと、積極的にダンスの催しに参加したが、それが却って仇となった。スミスという名の若造から卑猥な言葉を浴びせられたとして一悶着起してしまったのだ。

 数日後、食料品店でスミスを見かけたヘンリエッタは、拳銃を取り出すと、スミスの額に銃口を押しつけて謝罪を迫った。いくらなんでもやり過ぎだ。店主のティモシー・ラナガンとその妻が割って入り、ヘンリエッタに店からの退去を要請した。「さもなくば警察を呼ぶぞ」の一言にヘンリエッタは相当カチンと来たようだ。以来、ヘンリエッタとラナガン夫妻は犬猿の仲となった。

 2ケ月後の1853年5月某日、ラナガンの店にヘンリエッタがひょっこりと現れ、にこやかな顔で、
「仲直りしましょう!」
 これには夫妻は面食らった。たしかに情緒不安定な人だったが、まさかこれほどとは…。でも、まあ、悪い話じゃない。いつまでも歪み合っていても仕方がない。結構、結構。さあさ、お入りなさい。
「じゃあ、仲直りのしるしにビールで乾杯よ!」
 了解した夫妻は、ヘンリエッタをキッチンへと招いた。そこでは親類のキャサリン・ルビーが夕食の支度をしていた。
 ラナガン夫人がビールとグラスを用意すると、ヘンリエッタが、
「私、ビールの苦みが好きじゃないの。砂糖を入れてちょうだい」
 苦みこそがビールの旨味。何を抜かすか、このアマは、と私はここで思わずツッコミを入れたが、夫妻がツッコミを入れた様子はない。当時はビールに砂糖を入れることが普通だったのか?
 ビールに砂糖→検索。
 結構ヒットするぞ、おい。
 当時、普通だったのかは不明だが、そういう発想をする人がかなりいることだけは確かなようだ。とにかく、ラナガン夫人は云われるままに砂糖を出したところで、店から呼ばれて接客に応じる。キャサリンは夕食用のシャガイモを庭に獲りに出掛ける。ラナガンもまた、ヘンリエッタに云われるままに、酒のつまみを店まで取りに行く。
 おっと、キッチンにはヘンリエッタしかいないぞ。大丈夫か?
 3人がキッチンに戻ると、4つのグラスにはビールがなみなみと注がれていた。
「みんなの分にも砂糖を入れといてあげたわ!」
 さすがにラナガン夫人は余計なお世話だと思ったようだ。ヘンリエッタの音頭で乾杯したものの、一口しか飲まなかった。砂糖を入れているのも拘らず、いつもより苦かったという。

 ビールを飲み干してしまったラナガンは、間もなく吐き気に襲われて、その日の午後5時に死亡した。同じくキャサリンもまた翌日に死亡した。
 ラナガンが吐き気に襲われたその時から、夫人はヘンリエッタに毒を盛られたと確信し、直ちに警察に届け出た。かくしてヘンリエッタはお縄になった次第である。自宅の敷物の下からは砒素が入った小袋が発見された。それは10日ほど前に、彼女が隣町の薬局で購入したものだった。

 公判の間、ヘンリエッタは青いレースのベールで顔を隠していたことから、彼女は「the Veiled Murderess」の異名をマスコミから授かる。如何にもミステリアスで、正体の知れない彼女には相応しい。
 弁護人は精神異常を理由に無罪を主張したが叶わず、彼女には死刑判決が下された。但し、処刑が予定されていた1853年8月3日に急遽、終身刑に減刑されている。
 彼女が精神病院に収容されたのは、その37年後。独房に火を放ち、自殺を試みた時のことだった。そこで1905年に死亡。89歳だった。

(2009年6月15日/岸田裁月) 


参考資料

『LADY KILLERS』JOYCE ROBINS(CHANCELLOR PRESS)


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