シャルル・ソブラジ
Charles Sobhraj (ベトナム)



シャルル・ソブラジ

 連続殺人犯の中には、マトモに暮らしていたならば、優秀なビジネスマンになっただろうと思われる者がしばしば存在する。テッド・バンディがその典型例だ。ジョン・ウェイン・ゲイシーなどは現実に優秀なセールスマンだった。彼らには「口がうまい」という共通点がある。そして、このシャルル・ソブラジもまた、その範疇に属する人物である。

 シャルル・ソブラジは1944年4月6日、サイゴンでインド人の父とベトナム人の母との間に生まれた。父はかなり裕福だったようだが、間もなく家族を捨てた。已むなく母はフランス軍中尉と結婚した。シャルルという名はその時に授かったものだ。シャルル・ド・ゴールに肖ったらしい。
 その後、両親は幾人もの子宝に恵まれたわけだが、そんな中でシャルルはネグレクトされて育った。両親は2人の間に生まれた子供をより可愛がることを選んでしまったのだ。つまり、シャルルは愛情を教わることなく育ったのである。連続殺人犯となる条件はここで1つクリアされた。

 一家がパリに移転した時、シャルルは9歳だった。肌の色が黒い彼は、当然ながら差別された。何もかもが嫌だった。カトリックの寄宿舎も、お高くとまりやがったパリジャンもパリジェンヌも。素行は目に見えて悪くなり、警察のお世話になることもしばしばだ。何度も故郷ベトナムに密航しようとしては失敗し、気がついたら感化院に入れられていた。

 1970年、偽造小切手で3万フランほどの金を手にしたシャルルは、ボンベイへと渡り、この地で本格的な犯罪者としての途を歩み始めた、密売や故買等の闇取引に手を染め、それなりの成功を収めたのである。犯罪で「成功を収める」という表現はちょっとアレだが。
 ところが、1972年に大掛かりな宝石詐欺でしくじってアフガニスタンはカブールに高飛び。この地でもホテル代を踏み倒したかどで御用となるも、看守を買収してトンズラした。

 シャルルが初めて人を殺めたのは、カブールからテヘランへと移動する途中のことだった。タクシー運転手に薬物を飲ませて酩酊させて、トランクに押し込んだところ、窒息死してしまったのだ。
 ありゃりゃ。死んじゃったよ。
 こんなことに動じるシャルルではない。遺体を川に投げ捨てると、偽造パスポートでイランに入国した。ところが、この地でもすぐさま盗みのかどで御用となり、1年ほど臭い飯を喰うのだった。

 1973年、トルコに入国したシャルルは、イスタンブールで弟のギーと落ち合う。そして、2人して観光客相手に昏睡強盗を繰り返した。小金を貯めた後、ギリシャに渡ってアテネでも同じことを繰り返したが、間もなく露見し、お縄となる。しかし、このたびはまんまと脱獄してみせた。その際、シャルルは弟にかような説教をたれたという。
「よく憶えておけよ。逃げたいという欲望の方が、捕まえたいという欲望よりも勝っている、ということをな」
 ここでコリン・ウィルソンは著書『現代殺人百科』の中でツッコミを入れている。
「しかし、彼がその図抜けた才能をまともに金を作る方向に向ければ、捕まえられる必要がないことは、彼の頭にはついに閃くことはなかったらしい」
 若いシャルルには才能があった。偽造はお手のものだし、他人を信用させる話術にも長けていた。その才能を、どうして真っ当なビジネスに注ぐことが出来なかったのか? おそらく、生まれた環境が悪かったのだろう。

 デリーに戻ったシャルルは、マリ=アンドレ・レクレールなるカナダ出身の女性と懇ろになり、手に手を取ってタイへと渡り、高級マンションを借りてヘロイン取引に手を染めた。その際、シャルルは売人のアンドレ・ブルーニョを殺害している。薬物を飲ませて意識朦朧とさせたところでネットワークの情報を聞き出し、後はもう用済みとばかりに風呂場で溺死させたのである。

 バンコクでのヘロインの密売は大当たりした。映画『エマニエル夫人』の影響もあったのだろう。1975年当時のバンコクには、東洋の異国情緒を求める観光客が殺到していた。シャルルのマンションはそんな西洋人で溢れかえった。そいでもって、みんなラリラリだ。多少チョロまかしても気づかないし、気づいたら殺しちゃえばいいんだよ。
 彼はこの間に少なくとも8人殺したと見られている。

 間もなくバンコク郊外で発見された焼死体がオランダ人カップルのコーネリア・ヘムカーヘンリックス・ビターニャであることが発覚し、オランダ大使館員の要請を受けてシャルル(当時はアラン・ゴーチェと名乗っていた)のマンションが捜索された。すると出て来るわ出て来るわ、ヤクはもちろん、偽造パスポートの山。にも拘らず、シャルルは国外退去を許された。おそらく、いつもの手口で地元警察を買収したのだろう。

 さて、何処に逃げたのか、シャルル・ソブラジ。「少なくとも8人殺した」とあっては「捕まえたいという欲望」もかなり募るものなのだぞ。
 彼が遂にドジを踏んだのは1976年7月、ニューデリーにおいてだった。偽造用にパスポートを盗もうとして近寄ったフランス人観光客の団体に「赤痢防止」と称する薬物を与えたのだが、量を間違えて食中毒騒ぎを起してしまったのだ。20人もの観光客がおなかイタイイタイともがき苦しみ、結果、シャルルの身柄が押さえられるに至ったのである。

 1982年、シャルル・ソブラジには終身刑が云い渡された。しかし、それでもまだ軽い。これまでに彼がどの国で、どれだけ殺しているのか、未だに判然としていないのだ。
 とにかく、トンデモないならず者だが、彼には確かな「商才」があった。それをまともな方向に生かせなかったことを思うと残念でならない。

(2009年11月26日/岸田裁月) 


参考資料

『現代殺人百科』コリン・ウィルソン著(青土社)
『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)


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