メアリベス・ティニング
Marybeth Tinning (アメリカ)



メアリベス・ティニング

 ニューヨーク州スケネクタディで看護助手をしていたメアリベス・ティニングは、1965年にジョー・ティニングと結婚して以来、8人の子供を産み、1人の養子を迎え入れた。ところが、その子供たちが一人残らず死んじまったというのだから穏やかではない。いったい何があったというのだろうか?

 最初の5年間は何事もなかった。2人の子に恵まれ、メアリベスは幸せな家庭を築いているかに思われた。
 雲行きが怪しくなり始めたのは、1971年12月に次女のジェニファーが生まれてからだ。ジェニファーは生まれながら髄膜炎を患っており、僅か9日しか生きられなかったのだ。

 その2週間後の1972年1月20日、メアリベスは2歳のジョセフと共に病院の救急センターにいた。ジョセフが「発作」を起したというのだ。早速、入院措置を取り、様々な検査を行ったが、原因は全く判らなかった。問題なしとして家に帰したところ、数時間後に再び「発作」に見舞われた。救急車で担ぎ込まれた時には、ジョセフは既に息をしていなかった。死因は呼吸停止と診断された。

 その6週間後の1972年3月某日、メアリベスは4歳のバーバラと共に病院の救急センターにいた。バーバラが「痙攣」を起したというのだ。このたびは入院措置は取られなかった。しかし、その数時間後に意識不明のバーバラが救急センターに担ぎ込まれた。そして、間もなく死亡した。
 僅か3ケ月の間に子供が3人も死亡したのである。ただごとではないと誰もが思うが、その死の連鎖を説明できる者はいなかった。結局、「ライ症候群」か「乳幼児突然死症候群」のいずれかとして片付けられたわけだが、どうして「殺人」の可能性に誰も気づかなかったのか? 不思議でならない。

 それはともかく、メアリベスは間もなく妊娠し、1973年11月の感謝祭の日にティモシーを生んだ。ところが、19日後の12月10日には、メアリベスはティモシーと共に病院の救急センターにいた。幼児は既に息をしていなかった。死因はこのたびも「乳幼児突然死症候群」として片付けられた。

 1975年3月30日にはネイサンが生まれた。ところが、生後3日で生死をさまようハメになる。呼吸困難に陥り、鼻と口から出血したのである。この時はどうにか一命を取り留めたが、5ケ月後の9月2日に死亡した状態で救急センターに運び込まれた。メアリベス曰く、「ネイサンを助手席に乗せて車を運転していたところ、気がついたら息をしていなかった」。このたびの死因は「急性肺水腫」と診断された。

 相次ぐ我が子の死に按じた夫妻は、養子を迎え入れることにした。遺伝的な原因があるのかも知れないからだ。ところが、その直後にメアリベスの妊娠が発覚する。それでも夫妻は養子を迎え入れ、マイケルと命名した。
 その2ケ月後の1978年10月29日に6人目のメアリー・フランシスが生まれた。ところが、彼女もまた兄弟たちと同じ運命を辿ることになる。翌1月に最初の「発作」を起こし、2月20日に再発して帰らぬ人となったのだ。

 1979年11月19日に生まれたジョナサンも、1980年3月24日に死亡した。養子のマイケルも1981年3月2日に死亡した。1985年8月22日に生まれた最後の子供タミー・リンも、4ケ月後の12月19日にはベビーベッドの中で冷たくなっていた…。

 ここで私はサンドウィッチマンの葬儀屋のコントを思い出した。
「ポイントカードはお持ちですか?」
「持ってるか、そんなもん! 葬儀屋でポイントカード? どうなってんだ、お前の店?」
「葬儀1回で1ポイントつくんです。1年間有効なんですけど、20ポントたまると…」
「たまってたまるか、そんなもん! 1年間で20ポイントってお前、1年間で身内が20人死んでるってことだろ?」
「はい」
「祟りだよ、それ! 若しくは、そいつが殺してらあ!」

 この最後の一言はティニング家にそっくりそのまま当てはまる。20年で9人もの子供が死んでいるのだ。祟りでなければ殺人だ。
 かくして、この期に及んでようやくメアリベスが疑われて、厳しい追求の結果、タミー・リンとネイサン、そしてティモシーの殺害を認めるに至った次第である。
 結局、メアリベス・ティニングはタミー・リン殺害の容疑でのみ裁かれて有罪となり、20年から終身の不定期刑が云い渡された。

 しかし、それにしても判らないのは動機である。最初のジェニファーが病死であることは間違いない。そのことで気がふれてしまったのだろうか? 代理ミュンヒハウゼン症候群とも微妙に違うようだし、誰か答えを教えて下さい。

(2009年7月6日/岸田裁月) 


参考文献

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)


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