ウェイン・ウィリアムズ
Wayne Bertram Williams (アメリカ)



ウェイン・ウィリアムズ

 1979年から81年にかけて、ジョージア州アトランタでは黒人児童の誘拐殺人事件が相次いでいた。

 1979年6月下旬、エドワード・スミス(14)とアルフレッド・エヴァンス(13)が行方不明になり、7月28日に腐乱死体となって発見された。エドワードは銃で撃たれていた。アルフレッドは野犬に喰い荒らされていたために、死因を特定することは出来なかった。

 9月4日にはミルトン・ハーヴェイ(14)が母親のお使いで銀行に出掛けたっきり行方不明になった。彼の遺体は10月下旬に発見された。

 10月21日にはユセフ・ベル(9)が隣人のお使いに出掛けたっきり行方不明になった。彼の母親が公民権運動の指導者、カミール・ベルだったため、一連の事件は一躍、全米に知れ渡った。その遺体は10日後に閉鎖された小学校の床下で発見された。死因は絞殺である。検視によれば死後5日と経っていない。身につけていた衣服は洗濯済みで、遺体も丁寧に洗われていた。

 1980年3月4日にはエンジェル・レネア(12)が行方不明になり、1週間後に木に縛りつけられた状態で発見された。死因は絞殺である。喉にはパンティが押し込まれおり、性器には虐待の痕が認められた。

 3月5日にはジェフリー・マティス(10)が、3月18日にはエリック・ミドルブルックス(14)が、6月9日にはクリス・リチャードソン(12)が、6月22日にはラトイナ・ウィルソン(7)が、6月23日にはアロン・ワイチ(10)が、7月6日にはアンソニー・カーター(9)がそれぞれ行方不明になり、後日に遺体となって発見された。凄まじい頻度だ。明らかに異常事態である。

 被害者が全て黒人だったことから、白人の人種差別主義者による犯行の可能性が口々に噂された。しかし、警察はその可能性は低いことを言及した。何故なら、子供たちはみな黒人居住地区で連れ去られているからだ。白人が立ち入れば目立ってしまう。また、この手の連続殺人は同じ人種間で起こる傾向にある。故に白人の犯行とは考えにくいのだ。

 これに対して、ユセフの母親カミール・ベルは遺族会を結成し、記者会見を開いて地元警察を糾弾した。曰く、
「例え犯人が白人でないとしても、犠牲者が黒人であるために警察は職務怠慢を決め込んでいる」
 たしかに、その通りだった。これだけの大事件にも拘らず、担当刑事は5人に過ぎなかったのだ。世間の非難を恐れた地元警察は特別捜査班を設けて25人体制に強化した。また、犯人逮捕に繋がる情報には懸賞金が掛けられた。しかし、それでも事件解決の手掛かりは一向に掴めなかった。

 7月30日にはアール・テレル(11)が、8月20日にはクリフォード・ジョーンズ(13)が、9月14日にはダレン・グラス(10)が、10月9日にはチャールズ・スティーヴンス(12)が、11月2日にはアロン・ジャクソン(9)が、11月10日にはパトリック・ロジャース(16)が帰らぬ人となった。
 なお、パトリック・ロジャースはこれまでで唯一、犯人と接点のある被害者だった。ソウル・シンガーを志望していた彼のマネージャーが犯人だったのだが、そのことが判るのは後日のことだ。

 翌1981年1月3日にはルビー・ギーター(14)が、1月23日にはテリー・ピュー(15)が、2月6日にはパトリック・バルタザー(11)が、2月19日にはカーティス・ウォーカー(15)が、3月2日にはジョセフ・ベル(15)が、3月12日にはティモシー・ヒル(13)が以下同文。

 この頃には捜査費用は月額25万ドルにも膨れ上がっていた。故にアトランタの財政は破産寸前だ。ロナルド・レーガン大統領はこの事態を憂慮し、150万ドルの連邦助成金の拠出を決定。モハメド・アリやサミー・デイヴィス・ジュニア、フランク・シナトラ、バート・レイノルズといった有名人もポケットマネーを提供し、アトランタ警察を支援したが、どうしたものか、手掛かりは全く掴めなかった。そもそも単独犯なのか複数犯なのかさえ判らなかったのだ。

 1981年5月の時点で死者は26人にも達していた。そして、5月22日にようやく犯人逮捕の糸口を見つけるわけだが、それは全くの偶然だった。
 かつて遺体が遺棄されていたチャタフーチー川に架かる橋で見張っていた警官は「ザバーン!」という水しぶきの音を耳にした。誰かが川に何かを遺棄したのだ。その方向ではステーションワゴンに乗り込む男の姿が確認された。かくして、その男の身柄が直ちに押えられたのである。名前はウェイン・ウィリアムズ(23)。自称「音楽プロモーター」だった。しかし「川に何かを遺棄した」だけでは犯人と断定することは出来ない。間もなく釈放されたが、厳重な監視下に置かれたことは云うまでもない。
 その2日後、川の下流でナサニエル・ケイター(27)の遺体が引き上げられた。鑑識の結果、ナサニエルの服に付着していた犬の毛が、ウィリアムズのワゴンや自宅から見つかったものと一致した。同じ毛は他の10人以上の被害者にも付着していた。
 いよいよホンボシと見ていいだろう。ウィリアムズの周辺を洗った警察は、数々の目撃証言を引き出した。ケイターが失踪する直前にウィリムズと手を繋いで映画館から出て来たこと。ウィリアムズがゲイで、オーラル・セックスをしてくれる相手をいつも探していたこと。車に誘われた少年が、股間を触られたので慌てて逃げ出したこと等々。但し、すべてが状況証拠に過ぎなかった。

 ウェイン・ウィリアムズは1958年5月27日、当時の黒人としてはかなり裕福な家庭に生まれた。両親はいずれも教師である。40代半ばにして初めて授かった一人っ子ということで、かなり甘やかされて育った。欲しい物は何でも買ってもらった。16歳の時には親の資金的援助を得てラジオ局を開設。音楽プロデューサーになることを夢見ていた。だが、才能はなかったようだ。虚言癖がある夢想家で、大風呂敷を広げては親の財産を蕩尽していた。また、黒人でありながら黒人を嫌い、ニガーと呼んで侮辱していたという。

 証拠が全て状況証拠だったために、その冤罪を疑う声もある。しかし、彼の逮捕後、誘拐事件がぱったりと途絶えたのは事実なのだ。かくしてジミー・ペイン(21)とナサニエル・ケイターの2件でのみ裁かれたウィリアムズには2回の終身刑が云い渡された。彼は現在もなお服役中である。

(2009年4月29日/岸田裁月) 

   

参考文献

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
『現代殺人百科』コリン・ウィルソン著(青土社)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)
『SERIAL KILLERS』JOYCE ROBINS & PETER ARNOLD(CHANCELLOR PRESS)


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