ジェイムス・アラン・カービー
James Alan Kearbey (アメリカ)



ジェイムス・アラン・カービー

 1985年1月21日、カンザス州ウィチタ近郊の小さな町、ゴダードでの出来事である。

 ゴダード中学校に通うジェイムス・アラン・カービー(14)はミリタリーマニアだった。口を開けば銃器や戦争の話ばかりなので、同級生たちからは疎まれていた。否、イジメられていたと云ってよい。それはシカトという形で始まり、次第に暴力にまで発展した。犯行の数日前、ロッカールームで2人のイジメっ子に殴られている姿が目撃されている。

 犯行の前夜、カービーは少ない友人の一人に怒りを打ち明けている。曰く、
「うちの教師はどいつもこいつもロクデナシだ。イジメを放任している。奴らを何とかしなくちゃ駄目だ」

 犯行の当日、いつものように登校したカービーは、昨夜の友人にこのように耳打ちした。
「今日、やるつもりだ。奴らを地獄に送ってやる」
 やがてカービーは数ブロック離れた自宅に戻り、父親が所有するM1Aライフルとリボルバーを拝借して学校に向かった。
 当初の計画では廊下の隅に俯せになり、通りかかる者を狙い撃ちする筈だった。ところが、外気との温度差で眼鏡が曇ってしまった。これでは標的が捉えられない。まごまごしていると、その姿を教師のドーン・スウェリンゲン(32)に目撃された。彼女は慌てて校長のジェイムス・マギー(35)に報告した。
「校内にライフルを持った生徒がいます!」
 マギーはスウェリンゲンに連れられて現場に向かった。
「何をしているんだ、君は!」
 そう云い終えるや否や、マギーは心臓を撃たれて死亡した。スウェリンゲンも撃たれたが、彼女は幸いにも一命を取り留めた。

 その後もカービーは銃撃を繰り返し、教師のドナルド・ハリス(39)と生徒のダニエル・ウィリアムス(14)に重傷を負わせた。そして、逃走を試みる過程で武装警官により逮捕された。

 カービーは少年法ゆえに、7年後の21歳の誕生日に釈放された。しかし、更正は全くしていなかった。その後もちょいちょい警察のお世話になり、2001年11月1日には恋人との無理心中を図っている。彼女を人質に取り、トラックの運転席に籠城してショットガンによる自殺を仄めかしたのだが、交渉の末に数時間後に逮捕された(この件では2003年4月25日に仮釈放されている)。

(2012年12月24日/岸田裁月) 


参考資料

http://www.columbine-angels.com/School_Violence_1984-1985.htm
http://www.nytimes.com/1985/01/27/weekinreview/headliners-244766.html
http://articles.latimes.com/1985-01-22/news/mn-10970_1_wichita-police-officer
http://ks.findacase.com/research/wfrmDocViewer.aspx/xq/fac.19910118_0042020.KS.htm/qx


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