エリザベス・ピアソン
Elizabeth Pearson (イギリス)



 エリザベス・ピアソン(旧姓不明)は1847年、イングランド北部のダーリントン近郊で生まれた。生後15ケ月の時に叔母のジェーンに引き取られて養子になり、1860年頃に農夫のジョン・ピアソンと結婚し、4人の子供を儲けている。

 やがて養母のジェーンはジェイムス・ワトソンという馬丁と再婚するが、ほどなく病いで死んでしまう。そして、1875年の初旬にはワトソンもまた肺炎を患ってしまう。近所に身内がいない彼を看護したのはエリザベスだった。そして、彼女のおかげでワトソンの体調も次第に回復に向かっていた…筈だった。

 1875年3月15日、ワトソンのもとに医師のフランシス・ホムフレイが診療に訪れた。
「だいぶ良くなりましたね。このままなら、もうすぐ床から出られますよ」
 ワトソンは上機嫌だ。
 ホムフレイ医師を送り出す際に、エリザベスは彼に依頼した。
「実は父は近頃、便秘気味なんです。便秘に効く薬を頂けないでしょうか?」
 ホムフレイ医師は快く便秘薬を処方した。ジェイムス・ワトソンが急逝したのは、その4時間後のことだった。75歳だった。

 いくら高齢とはいえ、回復に向かいつつあった者が、僅か4時間後に急逝することはありえない。遺体は直ちに検視解剖に回されて、その死因が突き止められた。ストリキニーネ中毒だった。この毒物は地元でも容易に買うことが出来る害虫駆除剤『Battle's Vermin Killer』の主成分だった。
 では、いったい誰がそれをワトソンに盛ったというのか? 辺りを見回したら、可能性がある者はエリザベスより他にいなかった。

 かくして、まだ28歳のエリザベス・ピアソンは殺人容疑で起訴されて、死刑を宣告されたのだが、検察側が主張した動機は余りにも弱過ぎる。曰く、
「エリザベスは養母の再婚相手であるワトソンを良く思っていなかった。そこで、養母が残した家具類を我が物にするために、ワトソンを亡き者にしたのである」
 だが、たかが家具如きで大罪を犯すだろうか? 家の相続とかが絡んでくれば話は別だが、ワトソンの家はそもそも借家だったのだ。

 それでもエリザベス・ピアソンは、1875年8月2日に絞首刑により処刑された。冤罪の可能性が高いケースだと私は思う。

(2012年10月31日/岸田裁月) 


参考資料

http://www.murder-uk.com/
http://www.capitalpunishmentuk.org/pearson.html


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