ヴァーリン・スペンサー
Verlin Spencer (アメリカ)



ヴァーリン・スペンサー

 1940年5月6日、カリフォルニア州サウス・パサデナのサウス・パサデナ中学校で、元校長が6人の職員を銃撃し、うちの5人を死に至らしめる事件が発生した。どうしてそんなことが起こったのか? 以下、順に説明しよう。

 ヴァーリン・スペンサー(38)は完全主義者の堅物だった。そのために、彼が同校の校長に就任した直後から、教師との間に様々な軋轢が生じた。事が思うように運ばないことにスペンサーは苛立ち、次第に言動がおかしくなり始めた。神経衰弱に陥っていたのだ。このままでは学校業務に支障を来す。学校側は彼に3週間の休養を申し渡した。
 復帰後も状態は悪くなるばかりだった。慢性の頭痛に悩まされていたスペンサーはブロムカリ(臭化カリウム。当時の一般的な鎮痛剤)を1日に何度も服用していたのだが、その副作用で精神的不安定が更に進んでいたようなのだ。このまま彼に校長を続けさせるわけには行かない。間もなくスペンサーは解雇された。1940年4月30日のことである。

 スペンサーの不服申し立てを受けて、5月6日に聴聞会が同校の事務所で執り行われた。22口径のコルト製自動拳銃を携帯していたスペンサーは、事務所に入るや否や、最高責任者のジョージ・C・ブッシュと現校長のジョン・アルマン、学区責任者のウィル・スピアーに銃撃し、死に至らしめた。
 他の聴聞会のメンバーは、遅刻したために難を逃れた。

 その後、スペンサーは逃走する過程で秘書のドロシー・タルバートと教師のヴァーナー・ヴァンダーリップ、同じく教師のルース・スタージョンに銃撃した。タルバートは幸いにして一命を取り留めたが、生涯に渡って麻痺に悩まされた。

 この頃には通報を受けた3人の警官が同校に駆けつけ、犯人を追っていた。一方、スペンサーは誰もいないカフェテリアで腹を撃ち抜いて自殺を図った。だが、腹を撃ったぐらいでは直ぐには死ねないのだよ。間もなくスペンサーは病院に搬送されて、九死に一生を得た。

 かくしてヴァーリン・スペンサーは5件の殺人容疑で有罪となり、終身刑を宣告されたが、獄中では模範囚として過ごし、1970年に仮釈放された。その後はハワイに移住し、前科者の社会復帰に貢献していたようである。そして1977年に死亡。現地では惜しまれて亡くなったと伝えられている。

(2013年1月25日/岸田裁月) 


参考資料

http://articles.latimes.com/1997/jul/20/local/me-14688
http://www.cemeteryguide.com/gotw-johnalman.html
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_attacks_related_to_secondary_schools
http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=86754909


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