中川万次郎


 

堀江六人斬り」の呼称でお馴染みの事件である。

 明治38年(1905年)6月20日午前2時過ぎ、大阪の堀江遊郭の貸座敷『山海楼』において、主人の中川万次郎(51)が酔った勢いで家人6人を次々に斬り捨てるという凄惨な事件が発生した。

 こま(54・万次郎の内妻あいの母)
 安次郎(20・内妻の弟)
 すみ(14・内妻の妹)
 きぬ(16・内妻の兄の長女)
 梅吉(20・万次郎の養女・抱え芸妓)
 妻吉(17・同上)

 うち妻吉だけは両腕を斬り落とされたものの一命を取り留めたが、他の5人は助からなかった。

 酔いが醒めた万次郎は素直に自首し、動機を「内妻あいの姦通逃亡」と語った。つまり、あいが男と共に家出するのを家人が知っていたにも拘らず、知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいたことに腹を立てての犯行だったのである。
 もっとも、万次郎は同情に値する人物ではない。女にふしだらで、常に5、6人の愛人を抱えていた。また、あいはそもそも先妻の姪で、先妻が不在の隙に手籠めにして手に入れた妻だったのだ。彼女が逃げるのも無理からぬ事情があったのである。

 なお、唯一生き残った妻吉こと本名よねは、2年後に二代目三遊亭金馬の旅回り一座に参加している。少年落語家、柳家金語楼(後の『ジェスチャー』でお馴染み)の初高座も見守っていたという。
 巡業中、籠のカナリアが口で雛に餌を与えている姿に感銘を受けた彼女は、口で筆を取ることを思いつく。小学校に通って字を習い、独学で書道を習得したというから大した才媛である。24歳で日本画家と結婚し、一男一女の母となるも37歳の時に離婚。43歳で出家して「大石順教」となり、養父にして犯人、中川万次郎を供養したというから慈愛の人だったのだ。
昭和43年に死亡。81歳だった。

(2009年5月24日/岸田裁月) 


参考資料

『別冊歴史読本・日本猟奇事件白書』(新人物往来社)


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