尾崎留吉


 

河内十人斬り」の1年後の明治27年(1894年)4月22日、奈良県吉野郡大淀村で、またしても一晩に8人(胎児も入れると9人)も殺害される事件が発生した。

 事の発端は、同県葛上郡葛城村在住の新田源次郎が、妻子がある身でありながら浅川よねなる女性を孕ませたことに遡る。世間体を考慮した源次郎は、よねを独り者の尾崎留吉(31)に押しつけた。予てからよねのことを岡惚れしていた留吉は大喜びだが、納得が行かないのはよねである。源次郎のことが忘れられず、留吉の友人、米田楢吉に留吉との離婚仲裁を求めて、源次郎とよりを戻したのである。これを楢吉の策略と思い込んだ留吉は、次第に憎悪を募らせて、復讐に打って出た次第だ。

 午後9時頃、留吉はよねを源次郎宅に送る途中に刀を抜き、滅多矢鱈に斬りつけた。身重の腹を斬り裂いて、引きずり出した胎児まで刺し殺したというから惨たらしい限りだ。その後、源次郎宅に押し入り、源次郎は云うに及ばず、妻のその次女にまで斬りつけて惨殺した。更に二里ほどの山越えを経て楢吉宅に押し入り、楢吉とその妻のきく2人の子供まで道連れにした。以上、4時間ほどの出来事だった。その後、留吉は自首したというが、如何なる処遇であったかの記述は参考文献にはない。おそらく死刑だろう。

(2009年5月19日/岸田裁月) 


参考資料

『別冊歴史読本・日本猟奇事件白書』(新人物往来社)


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