大米龍雲



東京に護送される大米龍雲

 我が国における「切り裂きジャック」に該当する人物、すなわち最初の本格的な連続殺人者が、この大米龍雲である。ジャックが街角に立つ売春婦を獲物にしたのに対して、龍雲は主に尼僧を狙った。そのために「殺尼魔」と呼ばれている。

 大米龍雲は明治4年(1871年)に東京浅草の質屋に生まれた。幼くして両親を失い、九州大分の寺に出されたという。そのために本籍は疎か、本名さえも明らかではない。当人曰く、
「7歳の時、親戚の者たちに財産を横領された上、大分市の禅寺曹洞宗龍昌寺の住職、大米龍元に売り飛ばされた。大米龍雲の名はその時貰ったもの」
 18歳の時に養父龍元が病死したため、龍昌寺を出て、熊本の柔道家の内弟子となる。三段の資格を得た後、日清戦争に志願。戦地にて地雷を踏み、鼻柱を失って帰還した。
 その後、静岡県島田町の福仙寺の住職になるも、檀家が少なくてお話にならない。已むなく寺を飛び出して、詐欺や窃盗を繰り返しながら各地を行脚し始めたのが22歳の時である。

 最初の殺人は明治38年(1905年)1月21日のことである。兵庫県尼崎の尼寺、真如寺に押し入り、阪東白照なる72歳の老尼を殺害し、24円を奪って逃走した。この件で挙げられなかったことが、龍雲を大いに力づけたことだろう。殺しても、うまく逃げれば捕まらない。その犯行はますます大胆になって行く。

 同年6月には松江で、千手院の住職を騙して金を巻き上げようとするも叶わず、通報されて初めて逮捕される。
 6ケ月の服役後、すぐさま谷中の寺に押し入ったのを皮切りに、寺を専門に強盗や窃盗を重ねた。三重県桑名市で遂にお縄となったものの、刑は懲役4年に留まる。この時は「藤田清順」という偽名を用い、監獄の中でもその名で通していた。

 大正2年(1913年)1月4日に出獄してからは、龍雲の手口はますます大胆に、且つ残虐になって行く。
 同年4月、小田原の尼寺、願修寺の尼僧、斉藤法修(66)が寺を改修する寄付金を集めていることを耳にした龍雲は、信者を装って寺に訪れ、5円を寄付して信用させて、その晩は泊めてもらって姦淫した。翌日、寄付してくれる資産家を紹介すると偽って海岸に連れ出し、海に突き落として殺害。寺に引き返して現金20円と預金通帳を奪い、総額220円を神戸福原遊郭で使い切ったというから、いやはやなんとも、罰当たりな男である。

 その夏には兵庫県川崎波止場で25、6の男(氏名不詳)と喧嘩になり、これを殺して福岡に逐電。同市内でうどん屋を経営していた中山タマ(40)と強引に関係を結び、大正3年夏に共に上京して、京橋の下駄屋に間借りした。妻がいれば間借りしやすいし、目立ちにくいと考えてのことだったという。昼は仕事に出掛ける振りをして物色し、夜は尼寺に押し入るという毎日を送っていたようだ。

 大正3年10月31日、龍雲は多摩郡戸塚町(現在の新宿)の諏訪の森地蔵堂に押し入り、光心尼(72)を強姦の上に殺害。金がなかったので、米3升と布団1枚を盗み、大阪に逐電。しばらく住み着いてひと稼ぎした後、東京に舞い戻り、今度は神田の洋服屋に間借りした。

 大正4年(1915年)1月27日には鎌倉の感応寺に押し入り、美人尼僧として評判の牧教道(21)を強姦の上に殺害し、衣類数点を奪った。龍雲によれば、教道尼とは以前から情交関係にあったとのことだが、その真偽は定かではない。後に犯行の模様をこのように語っている。
「(情交の後)お前は男好きの堕落尼僧なのだ、と私が云ってやりますと、教道はひどく腹を立てて生け花用の花バサミを持ってかかって来ましたから、私はハサミを取り返し、教道尼の喉を突いて殺したのであります。この時、裾が乱れて陰部が見えましたから、意趣を晴らすために陰部も突こうと思ったのですが、これは実行しませんでした」

 同年5月29日には大阪府下三島郡の慈願寺に押し入り、住職(氏名不詳)を殺害して金品を奪い、7月初めに再び上京。芝愛宕下の荒物屋に間借りし、強姦や強盗を繰り返した。

 7月18日には杉並村阿佐ヶ谷の尼寺、法仙庵に押し入り、尼僧の泰岳(69)を強姦した上、現金5円と衣類19点を強奪した。一命を取り留めた泰岳尼は、犯人の風体をしっかりと憶えていた。
「年齢40歳前後。丈5勺2寸(1m56)位の色白の男で、鼻筋が欠けている」
 この事件と諏訪の森尼僧殺しの類似性が指摘された頃、神奈川県警からも類似事件が報告された。鎌倉で教道尼が殺害された事件だ。どうやら尼僧専門の強姦殺人犯がいるらしい。

 間もなく芝露月町の古着屋で、法仙庵から盗まれた袈裟等の衣類が発見された。売り主の名は「松本四郎」。鼻筋が欠けた男だ。早速、その男が間借りしている家を訪ねたところ、2日前の8月6日に引っ越したばかりだという。既のところで高飛びされてしまったのだ。
 直ちに新橋駅に急行した刑事たちは、「松本四郎」と思しき男と女の二人連れが、8月6日の午後10時40分発博多行きの列車に搭乗していたことを突き止めた。この列車が博多に着くのは8月8日、つまり本日の午後12時39分だ。ところが、時刻は既に午後1時20分を回っていた。
 やれやれ、取り逃したか…。
 いや待てよ、と福岡出身の刑事が声を上げた。この列車は連絡船の都合で送れることがしばしばなのだ。早速、福岡署に打電したところ、案の定、列車は2時間半ほど遅れていた。かくして8月8日午後3時10分頃、「松本四郎」こと大米龍雲と中山タマの両名は、待ち受けていた刑事に逮捕された次第である。

 東京に護送された龍雲は、数々の証拠を突きつけられて観念した。
「こうなったら仕方ない。悪事は全部白状する。しかし、そこら辺の小泥棒とは訳が違う。殺人と強盗だけでも二百はある。忍び込みと空き巣もそのくらいはあるだろう。俺はそれほどの大泥棒だ。それを白状するのだから、警視庁の一番上役を連れて来てくれ」
 かくして龍雲の長きに渡る懺悔話が始まったというわけだ。

 龍雲が自供した犯行は、殺人1件、強盗殺人5件、強盗138件、強姦30件、窃盗その他100件以上にも及んだ。但し、強姦については被害者たる尼僧や住職の妻、神社の巫女、ドイツ人の愛妾等が告訴しなかったために立件されなかった。

 一審の死刑判決後、裁判長が「最期に何か云うことはないか?」と問いただすと、龍雲はこのように息巻いたという。
「面倒臭えから、さっぱりやって貰いやしょうぜ。なあに、早く死刑になった方が、さっぱりしてようがさあ」
 その1ケ月後の大正5年(1916年)6月26日に処刑される際にも、メソメソすることなく、堂々としていたという。その様が余りに鯔背なので紹介しよう。月刊誌『話』昭和11年2月号に掲載された、元東京監獄看守、伊井大介氏の手記からの引用である。

《司法大臣からの命令があって、いよいよ死刑執行の朝だった。
 監房から何気ない様子を作って連れ出した私を、大米龍雲はヂロリと横目で見て、
「到頭、来やがったか」
 と独り語のやうに云って、草履をつっかけながらニヤリと笑った。その刹那、私の方が心臓の底迄ドキリとして、魂が氷って了ったような気がした。
 部長室に連れてくると龍雲は会釈もせず、のそりと黙って部長の前に立った。
 部長が型のやうに、
「司法大臣の命令に依って唯今より死刑を執行する」
 と申し渡すと、例のフフンと小馬鹿にしたやうなせせら笑ひを浮かべて、
「宜しく頼んますぜ」
 と打ッ切棒に云ってから、そこにゐた係官の顔をヂロリと見渡すやうにしたが、その特徴ある金壷眼にはこれっぽっちの恐怖の影もないやうだった。寧ろ何か憤ってでもゐるように不気味にぎらぎら光ってゐた。
 絞首台へ歩いて行く様子も平気なものだった。その大胆不敵さには、私達も思わず黙って顔を見合わせた。
 大米龍雲は供物の饅頭も平気でむしゃむしゃと食って、茶もがぶがぶ飲んで了ふと、煙草を一本吸はせてくれと云ひ出した。
「死土産に一本久しぶりに吸わせてくれたっていいぢゃねえか」
 仕様がないので、相談して特に二本許す事になって、火を点けて煙草を与えると、如何にもうまさうにぷかりぷかり落付いて吹かしていたが、急にほうり棄てて、
「永えこと吹わねえもんだから、畜生ッ、頭がクラクラしやがらア。さあ。やって貰はうか」
 係官が眼隠しをしようとすると、大米龍雲は頭を振って牛のように吠えた。
「止せやいッ。クタばっちまえばどうせ何も見えねえんだ」
 飽迄も承知しないので眼隠しなし。時間は来た。
 さしも兇悪無比、一世を震駭させた殺人鬼大米龍雲は間もなく絶命した》

 私が死刑になることがあるのならば、このように潔く死にたいものだ。「さあ。やって貰おうか」は、その時のために取っておこう。

(2009年6月10日/岸田裁月) 


参考資料

『日本猟奇・残酷事件簿』合田一道+犯罪史研究会(扶桑社)
『別冊歴史読本・日本猟奇事件白書』(新人物往来社)


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