パンテージス事件
PANTAGES CASE



ロサンゼルスのパンテージス・シアター


ユニース・プリングル

 ジョセフ・ケネディがハリウッドに残した三つの足跡。一つ目がRKO。二つ目が『クイーン・ケリー』の残骸。そして、三つ目がこのパンテージス事件だと云われている。しかし、本当にケネディが仕組んだのかどうかの確証はない。ただ、アレクサンダー・パンテージスが濡れ衣を着せられたことだけは間違いないようである。

 1929年8月29日午後、ロサンゼルス。瀟洒なアール・デコ様式の映画館、パンテージス・シアターでの出来事である。上映中の館内に女性の悲鳴が響き渡った。
 すわ、何事ぞ!。
 従業員が駆けつけると、赤いドレスに身を包んだうら若き女性が、中二階の物置部屋の前で泣き叫んでいた。
「あのけだものよ!。あのすけべじじいがやったのよ!。あいつを私に近づけないで!」
 彼女が指差していたのは、この劇場のオーナー、アレクサンダー・パンテージスだった。彼はオロオロとしながら声を荒げた。
「ち、違う!。こいつは罠だ!。濡れ衣なんだ!」
 弁明も虚しく、パンテージスは巡回中の警官に強姦容疑で逮捕された。

 ギリシャ生まれのアレクサンダー・パンテージスがアメリカ大陸に上陸したのは1897年のことである。クロンダイクのゴールドラッシュでささやかながらも金塊を掘り当て、これを元手にニッケルオデオンを開く。以後、徐々に店舗を増やし、今ではカナダからメキシコに至るまで60にも及ぶ劇場を経営するまでになっていた。パンテージスの劇場チェーンに比肩するのは、他にはKAO(キース・アルビー・オルフェウム)だけだった。
 そのKAOが前年の1928年にジョセフ・ケネディに買収されて、
RKOの一部となった。次はパンテージスの劇場チェーンの番だった。ケネディはかなりの好条件を提示したが、パンテージスは首を縦に振らなかった。
「誰があんな株屋に売り渡すもんか。この劇場は俺の血と汗でできてるんだ」
 そんな中で起きたのがこの事件だったのである。

 パンテージスに襲われたと泣き叫んでいたのは、ユニース・プリングルというダンサー志望の17歳の少女だった。彼女は職を求めてパンテージスに面会したところ、物置部屋に連れ込まれて襲われたのだと主張した。これに対して、パンテージスは怒りを込めて反論した。
「あの娘はこれまで何度も会いに来ていたんだ。魂胆が見え透いていたので、そのたびに断っていたんだよ」
 しかし、ハースト系の新聞各紙をはじめとして、マスコミはパンテージスを糾弾した。かたやうら若き乙女。かたや好色そうな中年男。どちらの云い分を信じると思う?。俺だって乙女の方に軍配を上げるぜ。

 かくして一審は有罪の評決が下ったが、辣腕弁護士ジェフリー・ガイスラーは喰い下がった。最高裁に上告し、従来の判例に異議を申し立てたのである。曰く、
「原告が未成年者であるからといって、その性的モラルを不問に付すことは被告人の利益に反する」
 最高裁はこの訴えを認め、「原告の証言には不明な点が多分にあり、その信憑性は疑わしい」として審理を差し戻した。ゲイスラーは原告とそのマネージャーの素行の悪さを暴き出し、また、物置部屋は女を襲うには狭すぎることを法廷で立証してみせた。
 まさかの逆転無罪。
 パンテージスは晴れて自由の身となったわけだが、時すでに遅し。彼の血と汗でできた劇場たちはRKOとワーナー・ブラザースの手に渡っていた。

 数年後、ハリウッドではこのような噂が囁かれた。
「ユニース・プリングルはジョセフ・ケネディに1万ドルで雇われた。もちろん、首を縦に振らないパンテージスを貶めるためさ。ユニースは1933年に服毒自殺したんだが、今際のきわにケネディが黒幕だと認めたってさ」
 しかし、これは事実ではない。ユニースは服毒自殺なんかしていない。ちゃんと結婚し、しあわせな家庭を築き、1996年まで生き存えていたのだ。だから、ケネディが仕組んだと断言することは出来ないのである(但し、その可能性は十分にある)。


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